指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『昭和残侠伝の博覧会』と黒澤明

2024年01月05日 | 映画

『昭和残侠伝・血染めの唐獅子』で、昭和2年に東京で行われた博覧会のことが出て来た。

ただ、これは大正3年に上野や青山で行われた「大正博覧会」のことをもとにしていると私は思う。

そして、この大正博覧会には、黒澤明の父黒澤勇氏が、理事をしていた日本体育会と体操学校も博覧会に出展し、大赤字を喫していた。

当時は、不況で仕方がなかったのだと思うが、同会の赤字は、経理担当理事黒沢氏の責任だとして、同会では厳しく責任が追及され、その結果黒澤勇氏は、理事を首になり無職になってしまった。

だから、それまで南品川に住み、高輪の上流階級の子弟の森村学園に行っていた黒澤明吾少年は、同校をやめて、文京区の公立学校に行くことになる。

社会にセーフティーネットがなかった当時では、普通のことだった。

このとき、黒澤家を支えたのは、兄黒沢丙吾こと、須田貞明氏がやっている活動写真弁士の高給だった。

だから、黒澤明も、神楽坂の兄の家に居候していたが、このときの模様は、後に映画『どですかでん』の下町の人間の姿として出てくる。

だが、須田貞明は、妻の他、愛人との間に子供ができたこと、トーキーストで、組合と会社の板挟みになったことから、愛人と心中してしまう。

そこで、しかたなく、黒澤明は、新規の映画会社PCLの助監督試験に応募して合格する。

そのとき、黒澤明は、人事課長から嫌がらせのような質問を受けたと本に書いてある。

だが、PCLの助監督資格は、「大卒の若者」だったのに、大学は行っていず、26歳と若手ではなかった黒澤明の採用を人事課長が渋ったのは当然だろう。

黒澤明の採用を強く求めたのは、映画批評家時代の親友で、当時PCLの映画製作担当となっていた森岩雄だと思う。

批評家時代の親友須田は自殺してしてしまい、自分は映画会社の幹部になっている。

その親友の弟が来たら、入れてやるのが人情というものだろうと私は推測するのだ。


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1 コメント

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黒澤明 (広い世界は)
2024-01-06 10:46:29
黒澤明は何を目指したのか。黒澤映画の登場人物は「スターウオーズ」のC3PCロボットみたいで感情が無い。人間に興味のない人。「乱」のカラフルな旗竿を描きたかった、画家だ。「七人の侍」は全く面白くないが、それを言うのはコルトレーンやビル・エバンスを貶すようで勇気が要った。黒澤は人の作品を観て感動した事があるのかな?鈴木清順の初期の佳作「悪太郎」とかだが。後期の「けんかえれじい」「関東無宿」「刺青一代」よりケレンが無くて好き。
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