私は、基本的には身内のことは書かないことにしているが、今日は母の日なので母、指田ケイについて書く。
母は、1909年鶴見の矢向に生まれた。下に弟が3人、妹が2人いた長女である。
家は、自作農の農家で、私が小学校の頃は、6月の田植えの季節になると実家に行って手伝っていた。
「家は、小作じゃないよ」とよく言っていた。
父指田貞吉と結婚したのは、1910年で、21歳だから、当時としては遅い方とのこと。
もちろん、見合い結婚で、どのような経緯で話があったのかは知らないが、多分遠い親戚等からの話だと思う。
その見合いは、南武線の電車の中でおこなわれたそうで、
「すれ違っただけで、よく見えなかった。
ただ、写真を事前に見ていて、ハゲているんじゃないの」と言ったが、
「光線の加減だろう・・・」と言われたとのこと。
おそらく父の額は広くて、私が子供のときもかなりハゲていたので、その頃からかなりハゲていたのだと思う。
結婚式は、大森の料亭で行なわれたそうで、立派な写真がある。
昭和初期は、大森海岸は、東京湾のオーターフロントで料亭があり、戦後も芥川・直木賞の選考会は、大森で行なわれていたはずだ。
小津安二郎の1956年の映画『早春』で、岸惠子と池部良が不倫の一夜を過ごすのも、大森の料亭である。ただし、海は汚れていると言われている。
小津は、戦前は蒲田にいたので、若いときは、この辺で遊んだ記憶があったのだと思う。
この大森の三業地には、監督の西河克巳も育ったことがあるそうだ。
さて、母が指田の家に来たとき、そこには老夫婦と、出戻りの妹、さらに幼い弟がいて、結構苦労したようだ。
さらに、義父が借金の借金の保証人になっていて、その人が破産したので、家にある日、執行吏が突然来て、家財に赤紙を貼りだしたので、びっくりしたそうだ。
その時の借財は、本家に立替えてもらったので、その時に保有していた土地をかなり本家に返したとのことで、「本当なら家はもっと土地があったのだ」と言っていた。
昭和恐慌が進行するなかでの、経済に疎い国民の悲劇と言うべきか。
さて、子供は順調に産まれ、女3人、男1人になって戦後を迎えた。
もちろん、こんなに美人ではないが、こんな感じである。
戦後、平和になったので、父が
「男一人では淋しい」と言って1948年にできたのが私なので、兄姉の内、私のみが戦後派で、あとは全員戦前の人間である。
私と長女とは16歳離れているので、私は姉が女子高生だったときを知らない。
二番目の姉については、かすかに高校生だったときの記憶がある。
1960年3月15日、父は二度目の脳梗塞で死んでしまった。死亡叙勲で、従5位訓5等を貰っているが、本来なら6等のところ、死亡叙勲なので1階級上がっているのだそうだ。
私は、小学校6年生で、午後、教室に残って卒業記念文集を作っているとき、家から電話が掛って来て帰って大森赤十字病院に行くと、大きな鼾をかいて眠っていた。
そのまま、その日の深夜に58歳で亡くなってしまった。
母の嘆きと悲しみは尋常ではなく、大声で泣いていた。
そりゃそうでしょう。長女は結婚して孫もいて、次女も高校を卒業して銀行に勤めていた。
だが、長男は大学2年生、三女も高校2年で、私はまだ小学生だったのだから。
母は、尋常小学校を出ただけの無学な女性だったが、生活力は旺盛で、死亡退職金で、空き地に木造アパートを建て、私たちの養育に当ててくれた。
母の性格は、長女の性か非常に他人への面倒見がよく、悪く言えばお節介な女性だったと思う。
この辺は、私はまったく受け継いでいない。ただ、姉たちに聞くと、
「旅行に行っても、何かを見ても、これはもう良いと言って、すぐに隣に進む」とのこと。
これは、私も展示等に行っても、長く見ておられずすぐに先に進んでしまう性癖がある。
1967年の夏、区のガン検診で胃がんが見つかり、手術になる。医者は言った「3月はもたしてみせるよ」
小6で母子家庭になり、今度は母が亡くなったら、誰の臑をかじれば良いのか。
当時は、早稲田の劇研にいて、芝居が面白くて、そのまま大学は中退して演劇か映画の道に行こうと思っていた。
それを断念して翌年から大学に戻ることのしたので、3,4,5,6年で卒業し、横浜市に就職もできた。
その後、母はまったく元気になり、30年生きて、私の子供の顔も見ることがで来た。
まるで私を、虚業の道から、普通の生活に戻すためにガンになったことになる。
母の日を迎えて大いに感謝したいと思う。