昨日の夜は、横浜市港湾局のOB会のはまどり会の宴会に行く。
場所は、山下町のホフブロウであり、この店は、元はシルクホテルの後ろにあったレストランだった。
午後は、大黒ふ頭のスカイウォーク等を見学したらしいが、私は用があったので、夜だけ行く。
30人弱で、歴代二人の局長といろいと話すが、彼らは、結論しか知らないことの途中の話をする。
それは、今はみなとみらい中央地区のワールドポーターズのあたりに存在した異常な形状のふ頭の「一文字ふ頭」のことである。
ここは、異常な形状で、横に突き出た小さなふ頭で、多数の倉庫が立っていて、道路が非常に狭いのだった。
そして、ここの土地の所有者には、港湾とまったく無関係な業者もいるという実に変な港湾施設だった。
これが、できた経緯を聞いたのは、1954年の港湾法施行以前から横浜港にいて、そのまま横浜市港湾局に就職した「移行職員」のKからさんだった。
1945年の敗戦後、横浜で行われた最初の市長選挙では、まったく意外にも、日本社会党の石河京一さんが当選された。
石河さんは、戦前から無産党の議員で、知名度もあったので、当選されたのだ。
だが、聞いた話では、彼は「ケチ」だったそうで、市役所で出されるお弁当も全部持って帰ったとのことで、評判はあまり良くなかったようだ。要は、日本全体が貧乏で、生活に余裕のなかった時のことだと思うが。
さて、4年後の1951年、保守派は、横浜の財界の大物の平沼亮三氏を市長候補として、当選させる。
彼は、西区平沼町の名の由来の大地主であり、彼の孫の一人が石坂浩二であるように、ルックスもよく女性にも人気があったのだ。市会棟に、平沼さんの写真が飾ってあったが、「いい男だなあ」と思ったものだ。
さて、二期目の1955年も平沼さんは出て当選されたが、76歳と高齢で、実際の議会答弁は、神戸市助役から来た田中省三さんがやっていたとのことだ。
要は、田中さんを次期横浜市長として、連れてきていたとのことだ。
そして、1959年になったが、そこで本来は田中氏に行くはずだったが、ここで手を挙げた方がいた。
戦中に、官選市長として横浜市長をされた半井清氏で、「私もやりたい」と言ったのだ。
そこで、自民党は、関内かどこかの料亭で鳩首会議をして、
「今回は、先輩である半井さんを候補とするが、次期は田中さんに譲る」との密約を交わした。
ところが、「なんとかと市長は3日やるとやめられない」もので、次も半井さんは出ると言い出した。
これに困って自民党は大会を開いて市長候補を決めた。
結果は、本来の候補である田中省吾さんを自民党の市長候補とした。
もちろん、半井さんも選挙に出ることになった。
田中さんは、自民党の公認候補なので、選挙資金はある。
だが、半井さんは、無所属で選挙資金がないので、急遽新興ふ頭の脇の海を埋め立てさせて「一文字ふ頭」とし、倉庫用地を業者に売却し、その一部をピンハネして選挙資金に充てたのだ。
だがら、変なふ頭ができたのである。
そこで、1968年の市長選挙では、保守陣営の分裂によって、日本社会党の飛鳥田一雄氏が当選されたのである。
飛鳥田市長を生んだのは、一文字ふ頭だとも言えるのだ。