指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

西口浩君について

2022年06月06日 | 東京

小山台高校、41年卒A組のクラス会があったので、一番有名になり、一番最初に死んだ西口浩君について書く。

2年A組になった時、彼は創価学会で活動しているので、有名だった。

私が、「学会なんてくだらないところでなんでやっているの」と聞くと、

「いい女がいるんだよ」との答えだったが、テレだったのか。

当時、今村昌平が『復讐するは我にあり』で作る西口彰事件もあり、われわれは「西口、西口」とからかっていた。

彼は、住所は浦和で、いわゆる越境入学だったが、当時は沢山いたものだ。

後に、ウォーマッド横浜を一緒にやった田村光男は日比谷高校で、中学は田園調布中だったが、住所は九品仏で、彼も日比谷に入るために越境で田園調布中にいたのだと思う。

西口浩は、成績は非常によく、現役で東大法学部に入った。

そして、学会が作った大学生組織・新学連(新大学生同盟)の初代委員長になった。

卒業すると、そのまま学会本部に入り、幹部になり、副会長・文化国際担当になったはずだ。

私は、パシフィコ横浜で、企画係長になり、オープニングイベント等の担当になったので、西口君に会いに行った。

学会の民音を紹介してもらうためで、信濃町の本部で会った。

異常に太っていて、「いい女で、酒池肉林なのか」と思ったものだ。

民音の方を紹介されて行ったが、当時は民音は信濃町ではなく、新大久保の住宅街にあった。

その後、「朝まで生テレビ」等で活躍されたようだが、私は見ていない。

 

                                     

五十一歳で、ガンで亡くなれたが、その少し前に同窓会に来て、

「いつも選挙ではお世話になっています」といつものように低姿勢だった。

この時も異常に肥満していて、到底われわれと同い年には見えなかった。

亡くなったときには、週刊新潮に「仏罰」と書かれたとのことだ。

彼で偉いと思うのは、われわれクラスの者などを一切勧誘しなかったことだ。

もっとも、小山台高校の生徒と家族は、いわゆる「貧、病、困」の新興宗教の対象とは無縁な者だったからだと思うが。

ご冥福を祈りたい。

 

 


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