狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

小学生読書感想文から

2006-10-16 09:17:49 | 反戦基地
町教育委員会生涯学習課主導で、町小中学校生徒による「読書感想文コンクール」が、開かれ、表彰することになった。読書離れをくいとようと、町の教育行政の一環で、来年は、対象を、小中学校生徒から一般社会人にまで広げようとしているようだ。
今年ははじめての試みで、最優秀賞、優秀賞、優良賞の審査に(審査委員は
殆ど学校教職員、O,B)小生も一般人として、その末席を穢す光栄に浴した。
目下審査中であり、公表することはどうかと思うけれど、
戦争の感想文が出てきたので、審査とは無関係にブログに書き留める。
審査依頼対象は小学3年生分が14点、4年生分が14点あわせて28点。まだ読み終えたのは(ワードに書き取っている)3編だけで、そのなかの1篇である。(小学校3年作品)

 >昭和十五年の東京。本所たて川三丁目、いまのすみ田区、中根かよ子が住んでいる町。五だいつづいた、つりざお作りの「さお忠」。
はたらきものの父ちゃん、やさしい母ちゃん、しっかりもののおばあちゃん、長男の大兄ちゃん、次男の竹兄ちゃん、三男きい兄ちゃんとわたしという大家族。母ちゃんは、今おなかに赤ちゃんがいます。きょうは、十月六日、わたしの八才のたんじょうび。おばあちゃんたちがスキヤキをつくってくれて、丸いちゃぶ台のまん中で、グツグツ音をたてておいしそうです。みんながおいわいをしてくれました。
 年があけて、昭和十六年になり、お母さんが男の子をうみ、こうのすけと名づけました。この年の四月、小学校は「こくみん学校」と名前がかわりわたしは、2年生になりました。十二月十二月八日、とうとうせんそうがはじまりました。たいへいようせんそうです。
三年目を迎えたたいへいようせんそうは、日ごとにはげしさをまし、日本の空にも、B-29があらわれ、けいかいけいほうや、くうしゅうけいほうがなりひびき、せんそう一色になりました。ぼう空えん習、ぼう火くん錬、空には、日本のせんとうきがいさましくとんでいます、そういうほんとうにこわいせんそうが、その年の八月十五日までつづき、終せんです。日本はせんそうにまけました。
父ちゃんや母ちゃん、弟もこのせんそうでしんでしまい、のこったのは、私ときい兄さんだけです。そして東京はやけ野原です。がんばって生きていくしかありません。
わたしはこの本をよんで、せんそうというものは、ほんとうにこわいいやなかなしい思いがします。これからは、そのようなせんそうをしないように、へいわなくにであるようにおねがいします。
今は食べ物もたくさんあり、きるものにもふじゆうしません。そして、おもちゃや、あそぶものもたくさんあります。せんそうのときの食べものもきるものもない生活や、親たちが死んでしまったつらいせいかつを思うと、なにもむだには、できないと思います。今の、しあわせなせいかつは、きっとあのこわいせんそうがあったからかもしれません。
わたしの町には、海ぐんさんの、いれいひがあります。おぼんのときに、家族で行ってきました。
わたしたちは、がんばっていきていきます。みまもっていてください。  
 



米騒動の頃

2006-10-15 09:58:21 | 怒ブログ
日本の経済界は明治の末頃、不況に陥っていたが、第一次世界大戦は、この不況と政府の財政難を一挙に吹き飛ばした。すなわちヨーロッパの列強が死闘をくり返していたのに対し、日本はわずかな犠牲で、しかも大きな利益を得た。
アジアの市場は、ヨーロッパ列強の手が及ばなかったので、日本はアメリカとともにこれを独占した。その上世界的に船舶が不足していたので、海運業が空前の好況にめぐまれ、いわゆる船成金がぞくぞく生まれた。
産業界も従来ドイツからの輸入に依存していた、薬品・染料・肥料などの輸入が途絶えたため、新たに化学工業が勃興し、紡績工場はイギリス製品が東洋市場から姿を消したので、日本がそれに代わり、製糸業などはアメリカが好景気のため、糸価が上がり輸出が急伸した。

 このような空前の好景気は当然物価の物価の値上がりを来たし、労働者や小作人の生活をおびやかし、小作争議や労働争議の原因となったのは別記の通りである。とくに米価はシベリア出兵などで軍用米の需要がふえ、それを機会に米商人の買占めで、大正7年夏ごろには1石は50円台にはね上がった。(この年1月の堂島の米相場1石23円78銭)
このため富山県の1漁村の主婦たちは、米価の引き下げを要求して暴動を起こした。これが有名な米騒動で、またたく間に全国に広がった・

クエーカーの真義 シドニー・ルーカス編:入江勇起男訳から

2006-10-14 21:40:37 | 本・読書

この本の奥付を見ると。
昭和27年11月5日 第1刷発行
昭和32年8月20日第2刷発行

発行所東京都港区句芝三田台町1丁目14
  日本基督友会となっている。

       序
最近、フレンズ・サーヴィス・コンミッチー(基督友会奉仕団)の名はしきりに喧伝され、現にノーベル平和賞の受領者として周く世間に知られてきた。それが世界全体に亘り、博愛救済、平和人道のために目覚しい働きをして居る事は人の認める所であるが、案外、その大きな働きの源泉に、人数こそ少ないが、堅信敬虔の基督
教徒の一団があって、その名をフレンズ(基督友会)もしくはクエーカーと称し、その静かな然し力強い信仰生活から、おのずと得秋で出でて右様の結果を生んだことはを知らない人が多い。

基督友会は他の宗教のように固定した教義郷里を持って居ない。極端と言ってよいように良心の自由を重んずる。神よりの光に照らされた各自の心奥に潜む内なる光は絶えず神の啓示を受けて明らかなるを得るのである。もとより、人間の内にあるものは、光ばかりでなく、暗黒もある。ポーロの言うた如く、わがうちにある悪によって、願うところの善を為し得ない。かえって願わざる所の悪をなす、これが人性の常である。それだけに、わが内を潔めて、正しい内心の光をた絶やさぬためには、並々ならぬ信仰による救いが要請される。内なる光に歩まんとするフレンズの立場は、外見の如く決して簡単ではあり得ない。不断の精進、それは何によって達成を期し得られようか。

 本書「クエーカーの真義」は、以上の要望に対して正しい解決を与えてくれる手引書である。基督友会には特に教義はない。然し先覚フォックス以来、300年の歴史に跨って、幾多の優れた友会員が、あるいは個人的に、あるいは年会をを通して、教友に啓示した尊い言葉がある。著者シドニー・ルーカス氏が十分これを咀嚼して自己の血肉とした上に、自己の思想として融合大成せしめたものを、平易明快の辞を以って吾等に紹介したん\物がこの書である。道を求める人として謙虚な態度を執ること著者の如きはなく、又、信仰を語るものとしておのずから具わる権威を感ぜしむること著者の如きは少ない。




クエーカーについて

2006-10-13 17:08:03 | 反戦基地

クエーカーを広辞苑に牽くと次のようにでてくる。
クエーカー【Quaker】 キリスト教プロセスタントの一派。フレンド派の通称。17世紀中頃にイギリスに起こり、フォックス(George Hox1624~1691)を祖とする。人はその内心に神から直接の啓示を受けるものと説き、これを「内なる光」と称した。ペン(William Penn1644~1718)の渡米によってアメリカで盛行。絶対平和主義の立場をとる、基督友会。


葬儀最終回

2006-10-12 22:02:00 | 日録
葬儀についての文で回を重ねた。これが最後にしたい。
私は「キリスト友会」という宗教法人の準会員ということになっている。
この組織については、あとで触れたいと思うけれど、ここでは「葬儀」について述べる。
  葬儀の手引き(暫定)
1.キリスト友会の特徴
 キリスト友会は、キリスト教の中の一教派であり、普通フレンドといわれていますが、クエーカーと呼ばれることもあります。人を救いに導くことが出来るお方は、イエス、キリストだけであり、そのキリストご自身がひとりびとりに語りかけたもうという信仰を持っています。それ故、特定の聖職者がおらず、教会のすべてのことが会員の分担で行われています。
 生活のすべての面で、単純かつ質素であることを良しとしています。

2.死と葬儀について
 人はただキリストの救いを信じることによって既に救われており、永遠の命を約束され、「天国に国籍」(聖書の言葉)が与えられます。死は天にある本籍地への帰還であります。
 そこで葬儀の内容は、地上での生涯を全うして、天に召された個人を回想し、神に感謝する集会であります。
 キリスト友会では、それを「静黙礼拝」の形で行います。静黙礼拝は、参加者が黙って座り、静まって待つ中で、身近に来たりたまうキリストを体験する集会のことです。葬儀の順序は、この静黙礼拝を中心にして、その前後に故人をしのぶための幾つかのことを組み入れて作られます。

3.葬議場の設営について

 キリスト教では、遺体を礼拝の対象と致しません。それは、故人が地での生涯を完うするのに、その霊を宿してきた肉体として、なつかしく愛すべきものですが、あくまでも器にすぎません。したがって、それを高い位置にまつってものを供するようなことはしません。遺体は棺に納め、黒布をかけただけで、参加者の坐位の高さに安置され、そのまわりを簡素な生花で飾るに留めます。キリスト友会では簡素であることが最も尊厳で美しいとしております。
原則として、葬議場内のしつらいなどの設営は、すべてキリスト友会に一任していただきますが、場外の設営(例えば受付の机、椅子、天幕等)は当家または組合の方々にお願いいたします。
 葬儀場としてはキリスト友会の会堂を使用できますが、その他、故人の個人の住居、一般の斎場でも差し支えありません。

4.通夜について
 通夜は当家のご希望があれば行うことが出来ます。特に順序を定めた式でなく、二、三の賛美歌の唱和、聖書朗読、祈祷、があり、個人をしのぶ感想が一人二人から語られることがあります。ここでは静かに故人をしのぶときが保てるように、なるべく少人数の集会であるほうが望ましいと思います。

5.葬儀の順序について
 式としてとくに定められた形式はありませんが、標準のかたちは次のとおりです。

前奏
賛美歌
聖書朗読
祈祷
故人略歴朗読
賛美歌
静黙
賛美歌
遺族からの言葉
頌栄
終祷
献花
(弔辞、弔電の披露はしません)

 静黙の礼拝の中で、一人か二人から故人についての感想と、すすめの言葉が述べられます。葬儀は、故人の生涯のすべてにわたって神の愛がいかに十分であったか、故人がその愛に励まされて、いかに人に尽したかを確認し、神を讃えることでありますから、いたずらに故人を褒め、その業績を顕彰することは避けなければなりません。
「遺族からの言葉」は、故人の近親の一人(配偶者、子、兄弟等)によって故人の晩年の心境、最後の言葉や様子などの中から、故人に代わって会葬者に伝えるという気持で、短く話していただくものです。(お礼の挨拶ではありません)
 当家から会葬者への挨拶は、出棺の時にしていただきます・

6.香典の取り扱いや、いわゆる忌中払いなどについて
 これらについて、キリスト友会としては関与しません。すべて、当家の意向と近隣組合の方々との相談で決めていただけば良いでしょう・

7.費用の負担について

 議場内の設営に要した諸掛は、キリスト友会から当家に払出をもとめます(主に花代です)
 葬儀の執行は、すべてキリスト友会の会員の奉仕によって行われます。
 職業的にこれに携わる人は特にいませんので、報酬は必要ありません。
(もし、お礼の気持からというのでしたら、献金としてキリスト友会がお受けします。金額の基準は全くありません。)

 この手引きは、まだ成案ではないが、月会の事務会及び総会において三年七ヶ月の長期間にわたって継続的に審議されたもので、1985年10月21日の総会で暫定的に使用していくことが決められたものである。

葬儀考

2006-10-11 22:09:00 | 阿呆塾
 組内にお葬式があって、それに間接ではあるが携わってみると、やがてやってくるであろう己の死出の山路について、真剣に思いを致さざるを得ない。
 田舎の4年前の葬式の想い出話を書いたら、ブロ友「日本人」氏から、次のようなコメントを頂いた。

《小生のような都会育ちには町内とか区の活動範囲に個人の葬儀があること自体、理解しにくいです。ならば祝儀の場合は…? まぁ、古い習慣も大切なんだと理解いたします。小生も仏事について連載で投稿中です。TBをと思いましたが、時間がありましたら寄ってみてください》

 菅原通済の著書に“通済放談 群魔頓息〟というエッセー集がある。その中の『隋時随所』というタイトルの章の一節に次のような文章がある。
>親父が死んだ時、親父にふさはしいやうにと、親戚会社の人々の御好意に反して、告別式をせずに新聞広告を出した。

菅原恒覧儀八十二歳を以って昭和15年4月10日急性肺炎にて安らかに永き眠りにつきました茲に生前御厚誼を賜った方々に御知らせ旁々厚く御礼申し上げます
 追而故人の平常にふさはしい様一般御通夜も告別式も行ひません    
御供物も御香料も堅く御辞退申し上げます萬一御贈与下さいましても失礼ながら御返し申します御弔問御弔辞も御見合せ願ひます
辱知に於かれ隋時随所にて御回向下さればこれに過ぎたる悦びは御座居ません。子通済外五名孫有恒外十六名、女婿英三外二名

へたくそだが文章は拙者が書いた。ところが会社の人々が、親父と私の名簿にある人々に御ていねいに又ぞろ死亡通知を出した、親父はあまり交際をせぬ人だったから、主に私の知人に出した。
 
 下村海南からは、随所で回向しろと広告してあったが、又々(傍点)ご通知に接し、謹んでおくやみ申し上げると、ハガキでチョッピリ皮肉られた。
 杉村楚人冠からは、随所で回向しろと、お前にしては出来すぎた広告で感心したが、催促状で落第点だ。仕方がない(傍点)から、おくやみ申上げねばならぬところまで追ひ込まれた。しかし広告文は近来にない上出来であり、この告別式なしは先端をゆく最もいいやり方だ、自分もさうしたいが、遺族が承知するか危ぶまれる。朝日、読売のは丁度いい加減の大きさだが、日日(毎日新聞旧称)のは大きすぎてみっともない。あれでは土方の親分まるだしだ、と返事をくれた。

 いずれも新聞人だけに仲々するどいご批評であり、海南先生も同感だったろうが、海南先生とはそれほど懇意でなかったから、楚人冠が親切にあきらさまに云ってくれたので、杉村君らしいあらはれである。別に弁解するにもあたらないが、手紙の通知が私の知らぬ間の事であるのは前述の通りであり、日日の方が大きかったのは庶務の手違ひで、当時小言を言ったが間に合わず、一人冷汗をかいた次第だ。
 
ところで実際には、かへって告別式をしたほうが始末がよい。でないとのんべんだらりんと、弔問客で閉口させられるし、来られる人々にもお気の毒だ。

【付記】 この本の『群魔頓息』という表題については、著者はその“はしがき〟の中で次のようなことが書いているので付け加えて引用する。

▽文中(大覚禅師諷誦文=菅原家藏)にあるとほり「一箭を施さずして四海安和」とか「一鋒を露はずして群魔頓息(傍点)」とか、なかなか雄大な文句があり、…(略)
▽(略)…、文状中の“一鋒ヲ露ハズシテ群魔頓(トミ)に息(ヒソ)み〟が気に入り表題とした次第で、…(略)
▽(略)…ただ“群魔頓息〟といふ題では、売れませんと出版元がコボすから“通濟放談〟トサブタイトルを入れることでダキョーした。そこは根が商人出だけにわかりも早い。           重陽九日  通濟記
   

10月10日

2006-10-10 16:43:39 | 日録

起床5時なり。ご近所のお葬式の手伝いで、2日間を費やし、ブログ更新を疎かにした。今日もまだ、落ち着かぬ。とりあえず昨日の日の出を貼り付けておいた。
新聞休刊日。ふだん新聞を見る時間に、それほど時間をウエートを置いていないが、新聞がないとこれもまた面白からからざる朝である。

テレビは、北朝鮮の核実験実施に伴うニュース特集を組んでいるようである。
オレは国際問題は疎い。安倍内閣もそれほどの期待感はない。

とりあえず、今日は過去の日記の10月10日に焦点を当ててみた。やはりこの季節はいつも死没者が多いようだ。

平成14年(2002年)日記より。
10月10日 
組内Y家葬儀。8時半ごろ集落センターへ行く。皆集まっていて俺が最後だった。生椎茸を入れた大袋が3袋も置いてあった。今は椎茸の季節なので、Yさんの裏山には椎茸栽培の原木に採りきれないほど、椎茸が出ているのだそうだ。今日の料理に使うのに持ってきたのだろうけれど、すごい嵩だった。

葬儀での組合側のほとんどの手配はYN君が仕切った。式次第は、従来両隣が長老格の人の意見を聞きながら進めていたものだが、今はすべて葬儀屋任せで済むので、人に相談するような難題はなく、時折従来の例から飛び出すこともあるのだが、自然な流れになって準備が進んでいくのである。

9時ごろ式場にあたるT寺に向かう。混み合うと思って寺入り口の大通りに車を停めた。
式場は、すでに葬儀屋が設営してしまって、郷の人たちを振舞う場所のテーブルを並べ替えて手直しをして、藁でたいまつを作ったり、竹を切って六道の辻の蝋燭立ての足を作り始めたが、葬具屋が万端用品が揃えて持ってきた。計算機からメモ帳、大小の輪ゴムまで。

今日のY家の告別式は花輪も内飾りも少なく、こじんまりとした印象を受けた。
祭壇を設けた客殿は俺が行ったときは、まだ戸が閉まっていて、周りの窓はカーテンも開けてなかった。中に入るとカビ臭いような異臭があった。

組合でも複雑に考える人は誰もおらず、YN君が万事手際よくことを進めていくので、俺はほとんどやることもなかった。そして参列者が少なかったことも、帳場を預かる側にとっては幸いであった。
本当に忙しいのは僅か10分ぐらいの間だけであった。組合を除いた参列者は○○人を割った。
香典は○○万円弱(正確には、香料○○万円、花輪代○○万円  計○百○万円であった。参列者と遺体を載せたバスが火葬斎場に向かって間もなく、YN君と俺で、香典の集計は終わってしまった。○千円の誤差があった。帳面より、現金の額が少なかったのである。

1時ごろ集落センターに戻って握り飯の昼食をした。
その後何回も香典帳、札束の勘定をしたが、どうしても○千円の差額は埋まらなかった。

【参考】
       御寺納
1、法礼           ○万円
1、布施           ○万円
1、上物志納金       ○万円
1、御血脈授与志納金   ○万円
1、火葬諷経布施      ○万円 
1、通夜諷誦経布施    ○万円
1、七日諷誦経布施    ○万円
1、客殿使用恩金      ○万円
計            ○○○○円であった。

客殿使用料を書いた別の「客殿使用の栞」みたいなものが一緒に寺から預かってあったので、○万円を別にして支払って(お納めして)きたら、客殿使用恩金がそれで、お返しする旨の電話があったので、俺が頂きにT寺に出向いたら,住職は作業衣になって剪定鋏を携えで玄関口に佇っていた。坊さんの出幕は5時頃という打ち合わせである。
集落センターでは親戚連中の忌中払いは大広間の方で、我々は座敷を二部屋仕切りをはずして組合の宴席を作った。坊さんのここで忌中払いと、酒宴となるのだが、親戚の方が終わらないと始まれない。5時というのは、親戚の方の宴席の時間に余裕を持たせた設定だった積りであったが、その通りになってしまった。

4年前の葬儀と、7日のお葬式では、全く変わった。全部葬儀屋任せである。
大変な費用だと思う。互助会加入勧誘の電話が時折あって、すべて無視してきた。しかし考えさせられる昨今である。

十六夜

2006-10-09 22:00:41 | 日録
中秋といえば、大抵9月中旬頃になるのであるが、今年は10月にずれこんだ。
歳時記(合本俳句歳時記新版 角川書店)によると、
『名月=陰暦8月15日《中秋の名月》である。1年じゅうでこの夜の月がもっとも澄んで美しいとされる。ひとつには季節がいい。秋草や虫の音、夜露や涼風など、風物のたたずまいが一層月を明澄にするといえる。この月のある夜が十五夜・良夜である。穂芒を挿し、新芋や栗・枝豆、あるいは団子などその年の初ものを供えて月を祭る風習は、収穫を祈る昔からの農耕儀礼の遺風であろう。
またこの夜、月の光で針に糸を通すことが出来れば裁縫が上達するとか、この夜しぼった糸瓜の汁は皮膚を美しくするとか、いろいろの俗信がある。』

このように 1年中でいちばん美しいとされる十五夜の月だが、曇ったり雨だったりして、なかなか名月には出会いないのが世の常である。だが、今年みたいな台風の中秋は記憶にない。添付写真は9日午前5時ごろ拙宅から見た、十六夜の月の名残である。
俳人でもある荷風散人、中秋については必ず断腸亭日乗の中で触れている。亡くなる前年の最後の「中秋」は、昭和33年であった。(34年4月30日死去)

九月廿七日。晴。正午近くの大黒屋にて□す。中秋名月。(1字ワード入力不能。
食のことである)

畏きあたりの中秋が寺崎御用掛日記にあるかと思ってしらべてみた。寺崎日記は、昭和22年までである。先ずこの年の断腸亭日乗を見て、中秋の衣日付を調べる。

九月二十九日。(昭和22年)雨。午後に霽る。海神にて凌霜廬の主人と共に月を見ることを約したれば晡下京成電車に乗るに偶然中山の駅にて主人に遇ふ。日暮空晴渡りやがて名月の昇るを見しが初更に至り雲多くなりぬ。去年の中秋もこの海神にて主人と共に月を見しり。月日の立つは早し。(中秋は今夜にあらず明夜なりという人もあり定かならず。)

寺崎日記の九月二十九日には、中秋の記載はなかった。灸に行ったことや、来客の事など、4行のメモ風の記載である。次の日。

九月三十日(火)
昨夜ハ八時前に睡りにつき一時 四時一寸前に起き六時迄寝る。よく寝たる方なり。
出勤の途上バンカー大佐に会ひ
1.蘇米関係、バンカー大佐は蘇ハ今戦ふ余裕なし、右ハ元帥も仝様なる旨。
2.皇后陛下の御着物の件
3.元帥との御会見の点に言及し、通訳ハ小生といふ事を三度再確認したり
等一時間に及ぶ、陛下度々留守中御めしありたる由
早く帰宅、しまやに一寸より
夜ハベーン、ベル、ハリスの宴会 大金邸 天ぷら大いによし
ハリス 酔ふ 柳 楽天に発信
○蘇聯[国際連合]より出た方佳し

一億特攻の生活

2006-10-08 15:52:43 | 反戦基地
『復録版昭和大雑誌「戦中編」流動出版社』という昭和53年出版の戦時下の雑誌の記事をダイジェスト風に収録した本がある。扉に戦時下に生きる雑誌群と題して当時の主な雑誌の表紙の写真が載っている。

▽主婦の友  撃ちてし止まむ 作れ 送れ 撃て
必勝の防空生活号(昭和19年3月号)    主婦の友社
▽雄弁新年特大号 奉祝皇紀二千六百年万歳
別冊付録   動乱の世界と興亜日本―各界名士時局熱論集―
                    大日本雄弁会講談社
(目次の写真付き)
▽新若人  9月創刊号            歐文社
▽少女倶楽部  心と体を鍛えよう十月号
                    
▽少年倶楽部 小国民雑誌  決戦の火ぶたは切られた
                    大日本雄弁会講談社

▽イタリア 枢軸文化の連携運動4創刊号 
▽日独文化 昭和15年4月創刊号   財団法人 日独文化協会編輯発行
                      刀江書院発売
▽満洲詩人  創刊号            満洲詩人会
▽南方美術 創刊号  台湾美術文化について   二十五銭
▽日本文学者 創刊号
▽新作家2月号     第一巻  第一号
▽新芸術   創刊号   ヒトラー号
▽学生演劇  創刊号
▽現地報告
  特集
 翼賛選挙の真諦
 印度に与ふ第二公開状
 落下傘部隊急襲記
 大東亜建設者の資格   第55(四十銭)4月号
                   文芸春秋社
▽時局雑誌 時局情報    9月10日号

▽祖国日本 創刊号
▽新亜細亜 創刊号
▽オール読物  進め!一億火の玉だ!
▽ 改造 撃ちてし止まん 2004  6月号  70銭
▽文芸春秋 撃ちてし止まん 
  「和紙」(芥川賞)東野邊□←不明活字
▽主婦の友 2題  表紙 内容画報 (父出征・乙女出陣の誓い)
     

敵アメリカはかう言ってゐるぞ!

2006-10-07 21:26:50 | 反戦基地

戦時中の雑誌にブログタイトル『敵アメリカはかう言ってゐるぞ!』のような記事がある。雑誌名不詳 筆者無署名(19年12月号とだけあり)=復録版昭和大雑誌戦中編(流動出版)
戦争末期は、新聞も雑誌も、例外なくこのような考え方、内容記事であった。学校は(小学校[国民学校と改称]から大学[ボクは大學に行かないから不詳だが…]まで挙国一致鬼畜米英、日本神国なりのスローガン一色であったのだ。

敵のほざく戦後日本処分案
○直接東京に通ずる道は多数あるが、われわれはその一つをもなおざりにしないであろう。もし日本から和を乞うならばその唯一の条件はカサブランカの宣言条件たる『無条件降伏』である。われわれは先ず悪辣野蛮なる戦争指導者に充分の天罰と応報を下すであろう(ルーズベルト)

○日本を占領したら、戦争に直接関係した者を手始めに、科学者も報道関係者も全部死刑にしてしまへ。働ける男は奴隷として全部ニューギニア、ボルネオ等の開拓に使うのだ。
女は黒人の妻にする。子供は去勢してしまふ。かくして日本人の血を絶やしてしまへ。

○日本本土に上陸したら、虐殺競技(コンクール)をやらう。女は別である。女については自らの道がある。子供には『奴隷としての教育』を施すのだ。アメリカ人の鞭の痛さを身に沁みさせておかぬと将来が面白くない。
できる限り粗末な襤褸を纏わせ、跣足で歩かせる。そして思いきり酷使するのだ、耐え切れぬ者は死んだ方がいい。こうして生き残った者こそ、牛馬に等しい従順さと労働力を具えた理想的な奴隷となるであろう。

○小猿も放っておけば親猿になる。日本の子供は不具にするに限る。眼を抉ったり、耳を聾にしたり、片腕を片足を切り取ったり、ありとあらゆる形の不具を作るのだ。こうした動物の如き子供らが街頭を右往左往するのは実に面白い観物であろう。
(略)
『アメリカ人ほど口に人道を唱える国はなく、アメリカ人ほど非人道的な国民はない』ということは、世界中の心ある人は誰でも知っている。しかも彼らは厚顔に紳士の仮面を被り続けて来た。その仮面を、今や自らの手で剥ぎ取り、彼らが神も許し給わぬ〝人類の敵〟なる事を、余すところなくわれわれに知らせてくれたのだ。

 よくぞ知らせてくれた。世界無比の尊厳なる国体を持つ日本は、清らかな血に高貴なる道徳を伝えて来た日本人は、この悪虐非道に対して、神奮えに奮え立つばかりだ。
 この世界の害獣共の非望に何を以って応うべきか。それはお互い日本人1億の肚の底にある。恐らく神の御心にもあるであろう。
                   19年12月号

 戦争中、アメリカではどのような教育をしたのか、新聞の論調、文化人たちの発言行動等はどうだったのか、正直言って全く判らないけれど、ボクは戦後矢継ぎ早に刊行された、D・キーンの著作に釘付けになってしまっている。日本人が恥ずかしかった。

日本との出会い ドナルド・キーン 篠田一士訳から引用
>ハワイ勤務中に得た一番強烈な思い出は、通訳した日本軍の捕虜にまつわるものである。
作戦終了ごとに少数の捕虜が捕らえられた――アッツの時はたった十七人、タラワの時もあまり変わらなかった。多くのものは捕らえられた時意識がなかったにもかかわらず、捕虜になったことは無上の恥で、祖国を裏切ったのだと思いこんでいた。あるものはつかまってから自殺を試みたし、大部分の連中は決して日本へは戻れないと決めていた。しかし、しばらくたつと何人かの捕虜は考えをあらためて、捕虜になってもよい待遇を受けられるということを保証して、絶望的な状態にある他の日本兵の命を救いたいというようになった。

終戦近くになると、抵抗は無益だとさとってすすんで投降するものがだんだん多くなった。軍国主義者の政策に愛想をつかして、日本を徹底的壊滅から救うためなら喜んで何でもするというものもいた。尋問をはじめる前に私たちは、英国の情報将校がドイツの捕虜を尋問するやり方をフィルムで見せてもらった。

尋問する将校は、煙草をすすめたり、微笑を浮かべたりしてまず雰囲気をやわらげ、自分と捕虜の間に、何らかのつながりをつくろうとした。たとえばハイデルベルグの生活はたのしかったなあといった風にである。それからゆるりゆるりと、また遠まわしに軍事的重要事項に触れてゆく。こうして少しづつその捕虜が機密を洩らすようにし向けていくのである。

しかし日本の捕虜についてはそうした気づかいは無意がなかった。日本人は断じて捕虜になるなと命じられている。たとえ不本意にしろこの命令にそむいたというその事実が、日本人としての資格を剥奪されたことを意味していた。その結果、尋問官から巧妙にそそのかされるまでもなく、彼らはたいてい、知っていることはすべて自分からしゃべり出した。 

2006年10月7日

2006-10-06 21:52:40 | 怒ブログ

終日風雨強し。ご近所(同じ組内)同僚のお通夜なり。余も組の一員として同席、今帰宅したところなれば、ブログ更新果たして苦痛なり。

思い起こせば、通夜導師の説教、達磨大師に及ぶ。今手元なる曹洞宗家庭暦を開けば、次の如き記載ありぬ。いでや、そをつぎに書き記すべし。

10月5日 だるま忌。地方自治の日。1粒万倍日
10月7日 ○満月 健康の日、己巳大安

10月5日は達磨忌、達磨様の命日である。印度香至国の第3王子であったが仏門に入り、お釈迦さまの正法を受けつがれた28代目のお方で、禅宗の開祖である。この大乗教を弘める為に中国に渡り、当時の明君、梁の武帝に迎えられて対談されたが機縁未だ熟せずと、嵩山の少林寺に至って面壁座禅をしておられた。この時、雪中に臂を断って法を求めた嗣法の弟子、慧可和尚を得られた。
達磨様より更に22代目が天童如浄禅師で、この御方から道元禅師が嗣法され、我が国に禅宗が弘まった。





山廬忌

2006-10-05 22:14:21 | 本・読書

ネット俳句に
 山廬忌や 連山 けふも雨ならん  南風子

という南風子さんの句が載った。ボクが彼女のHPに、中学時代〝「水泳」という蛇笏の文を読んだ事がある〟とコメントしたら、早速〝どんな文でしょうね〟というご返事を頂いた。
そんなに長い文ではないので、書き写すことにした。
これは『国語』という昭和9年岩波書店が発行した唯一の中等学校用教科書である。
 ボクは、この復刻版を入手して保存している。全十巻(5年制1学年2巻使用)であるが、戦争により、実際に使用したのは、巻4(あるいは巻3までかもしれない)までであった。
この「水泳」は巻1(1年1学期用)に載ったものだ。

 この復刻本『国語』は10巻1セットで、
 編纂趣意書・解説・総目次等の小冊子の付録がある。
次はその「解説」の中にある興味深い1節だ。

>(略)…1934年に刊行されたものである。当時の中等教科書の検定は、進学率90%を越える今日の高校教科書に対する検定よりも、はるかにゆるやかであった。しかし時代の支配的思潮による強い制約があり、著者が自分の思い通りの教科書をつくることはできなかった。というのは文部省訓令としての中学校教授要目があって、そこから逸脱することは許されなかったからである。1931年2月に改正された教授要目にある「国語漢文」のうち『国語』に関係のあるところをみると、国語の購読では読方と解釈、話し方・暗誦・書取を課すこととしたうえで、その材料について、次のように規定していた。

「其ノ材料ハ総テ文章ノ模範タリ而シテ国体ノ精華、民俗ノ美風、賢哲ノ言行等ヲ叙シ以ッテ健全ナル思想、醇美ナル国民性ヲ涵養スルニ足ルモノ、文芸ノ趣味ニ富ミテ心情ヲ高雅ナラシムルモノ、日常ノ生活ニ裨益アリ常識ヲ養成スルニ足ルモノ等タルベシ」


      水泳          飯田蛇笏
 私は、水泳を好んでした。
 あまりに幽邃な谷川の邊は気味が悪かったので、いつも自分より年上の友達を誘ってはそこへ出かけた。  
山地の荒畑を通りぬけて、緑竹の混じった雑木林を降りてゆくと、直ぐ眼の下に蒼々と湛へられた谷川の水が見える。それは、友達同志が幾日もかゝつて、乏しい谷川の水を堰き切って拵へた、吾等にとっての貴い水泳場である。これを拵へるには、あたりの積石を拾ひ集めて丹念に積み上げ、石と石との隙間へは近傍の雑草をむしって来て詰めたものである。石を運ぶ時、水の中を運ぶとたいへん軽いことがわかって、手頃の石をよちよちと運んで行くと、不意に水底の石車にのって倒れる拍子に石を取落としてしまひ、がぶりと一呑み水を飲んだりする。鼻腔から脳天へかけて、一種香ばしい痛さが沁み通る。そんな時は、すぐ年上の友達がやって来て、苦もなくその石を拾い出して堰提に積んでくれる。私が雑草をひきむしってゐる間に、彼等はあたりの懸崖の一端を一抱へちぎって来て、堰堤の大洩れするところへたくみにあてがふ。かくてどうどうと堰堤を越え落ちる水は吾等にこの上もなく愉快な響を与へた。
水のよく澄んだ時、そっと行って見ると、群をつくった柳鮠が、静かに泳いでゐるのが見えた。
年上の友達は、雑木林を下りる時、すでに早く兵児帯を解いてゐる。一行は岸に付くや否や著物をかなぐり捨てて、いっせいにざんぶとばかり溜り水をめがけて飛びこむ。さうしてしきりに浴びぬいた末は、てんでに唇を桑の実色にして顎たゝきをしながら、夏日の直射する岩の上へ這ひのぼって、猿が餌をたべる時のやうな格好をして日影に浴する。少し黄色みを帯びた日光は、さながら、秋の日影を見るやうな静寂な感じを与へる。
午天近く、私たちは雑木林をぬけて帰る。眼前に展開する荒畑のふくむ暑気が、心地よく身邊をつゝむ。痩桑に昼顔が絡まって咲いてゐる。えのころ草の穂が、陽炎をあびながら、あるかなきかの熱風にかすかに揺られてゐる。私はその一穂を摘みとって、爪をあてて二つに裂き、鼻の頭へ持っていって、鼻を跨がせて鼻天狗の真似をしてみた。草穂の、甘ったるい妙な匂が臭覚を掠めた。
何心なく足の先をながめた時、平生の泥足が俄に奇麗になってゐることに気がついて、急に不安が襲ってきた。家庭から水泳ぎを禁じられてゐた私は、友達と同じやうにこのまゝ帰っていった日には、直ぐ母に気づかれて叱られるにきまってゐる。しかしさういふ不安を友達に看破されるのは厭であった。私の心は、友達のやうに快濶に自由に、自然の児として振舞ひたい欲望に満ちて居たから。
私は家に帰って、落ち着かぬ気持で昼飯の膳に向かった。
     (雲母)

追懐 そば屋だった図書館長

2006-10-04 18:54:17 | 怒ブログ
『自分の家から歩いて20分以内のところにおいしいそば屋がある……最近、これが私の居を構えるに当っての理想になってきた。かつては、たばこ屋・酒屋・銭湯・それに駅に近いというのが下宿やアパートを探す目安だったが、ここまでくるとそばだなという気分が、近ごろとみに強まってきたのだ。これはおそらく、年齢をかさねるにしたがって、私の中の日本人的生理が頭をもたげてきたということだろうと思っている。そばの味は、たしかに日本人の躯の中に埋め込まれているもののひとつにちがえない。……』

これは、或る雑誌《特集 そば読本》の巻頭の松村友視の「夢見蕎麦」と題したエッセーの書き出し部分である。

当然この特集の意図するところには、特定の実在するそば屋の紹介文・写真等が載せることなのであって、筆者は自らを、『旨いそばを食べさせてくれる店が歩いて20分ぐらいのところにあればいいなと思っているというレベルのそば好き』と言いつつ、『たまにはそばの食い手のプロたちの言の葉にのぼる店に行ってみたい気持ちは湧くのであり…』と文は会津若松の「桐屋」にと導くのである。

僕のそば好きは、友人などを外食に誘ったり、あるいは誘われたりした際に、何一つ躊躇うことなく「もりそば!」と注文する程度のレベルである。とはいえ、その後のページに続く「日本のそば打ち15傑」というA4版いっぱいに撮ってある「せいろそば」の実物を見るようなそばの光沢や、器への盛り付け、また職人気質の筋金入りともいえるそば打ち風景、古風な趣のある店構えなどの写真に眼を凝らすと、僕の内の世界では新たな想像が頭をもたげてくるのであった。

もし、この《そば読本》の筆者や記者たちが、わが町のTさんが創められたそば処「そば処K」の店を訪ねたら、どういうような記事を書くことになるだろうかと、ふと思ったのである。

その店は、まことに辺鄙な住宅団地の中にポツンと建っていた。細い横道になる入り口の処に、『手打ちうどん そば』と書いた幟らしきものが2棹はためいているが、こんなところに、そば屋が存在すること自体が不思議であった。はじめてここを訪れたとき、この目印を見落としてしまい、果てしない迷路にのめり込んでしまった経験が僕にはあった。
店の前の狭い駐車場に立つと、宅地化される以前、この辺りは山林であったと思われる自然の樹木が、1叢をなしているのが目にとまる。それを巧みに生かしたたずまいは、見るからに「素朴さ」にこだわり続けたような風情である。店内に足を踏み入れると、その奥にはこじんまりとしたギャラリーが設けられていて、丸太のまま木肌を生かした数々の調度品や、煤けた天井の梁材が、ある種の気品を漂わせている。

この1室から、中国はじめ内外の新進画家や、郷土の有能な美術工芸作家たちが輩出しているのだという。

町の図書館長であった故T氏(この場合「さん」でなく、「氏」とした)は、この「そば処K」のオーナーであり、そば打ち職人であった。しかも図書館長がそば屋を創めたのではなく、はじめにそば屋ありきで、後でそのそば屋の店主が、図書館長に抜擢されたのである。

最近やたら見かけるギャラリーを兼ねた喫茶店などが、結構流行るような時代であるから、僕はT氏の道楽が、このそば処を構える理由のひとつであると思ったことがあった。
しかしそうではなかった。日曜日はいうまでもなく、図書館を退けてから氏の作務衣を着た職人姿に、図書館での「町出身作家に関る文学コーナー」「郷土文学研究会」「文化遺産研究会」へと発展させた氏の功績の原点があるなと思ったのである。

おおよその市町村の教育に関る役職や、図書館・公民館等の長の人事は、元学校長といった肩書きのある先生方の、格好の天下り先であり、まず要領のいい世渡り上手な者達で占められている現実の中にあって、Tさんの図書館長起用はまことにユニークな結果を生んだ。
それは『そば屋の主』という職業上の問題ばかりでなく、ほんの一例を挙げれば、熱烈な住井すゑの後援者であったことでも裏打ちできることではあるまいか。お隣のT市や、わが町のように、極めて保守的な風土には『橋のない川』は適していない。

かつてT市中央公民館で催された住井すゑ講演会《九十一歳の人間宣言》の時、僕も妻や友人と一緒に聴衆の中に加わったものだが、Tさんや、I隣村長たちがいち早く実行委員に伍して活躍なされたのに対し、当日この講演会の真っ先の後援者である、T市教育委員会のお偉方は、一人としてその顔を見せなかったのを、今もなほ僕ははっきりと覚えている……。

T図書館長起用の経緯について僕は詳らかではない。しかしこれは今は故人となってしまった、元町長M氏の宏量によるところ大なりと確信している。

Tさん不慮の事故に遭って亡くなられたことは、町の大きな財産を失ってしまったことを意味すると思う。あまりにも惜しい哀しい出来ごとであった。

 Tさんが亡くなられ、更に時が流れ、僕は久方ぶりの「そば処K」との再会を果した。いうまでもなく、T未亡人へ弔意をあらわすことと、その後の、ここの「もりそば」を確める意味の訪問である。
店内の隅の額縁に収められて掲げてある一枚の原稿用紙……、開店のとき住井すゑが寄せた祝辞であろう。そこにはこう書かれている。

     
ふるさとそばどころ
              住井すゑ
ふるさとへの道は暖かく、夏は涼しい……と申します。
皆さまも、お心あたりが、おありではないでしょうか。
ふるさとは、嘘をつきません。
ふるさとは、ありのままの姿と心で、人を迎えてくれます。だからこそ、ふるさとへの道は、冬は いよいよ暖かく、夏はいよいよ涼しいのです。
ここ、〝そば処K〟の主は、そんなふるさとを志して小さな店にしました。
気がねなく、いこえる空間。
お世辞はありません。嘘はなおさらのこと。
どうぞ、お心やすく、〝そば処K〟に足を運んで下さい。



蕎麦談義

2006-10-03 21:30:18 | 阿呆塾
T兄からのメール添付の写真を借用した。
撮影場所は書いてないので、何処で撮ったかは不明だが、「常陸秋蕎麦」と書いてあるから、イバラギ県内の何所かなのではあるまいか。イバラキの県北地方は今でも蕎麦の名産地だとも聞く。

私は古老から、蕎麦は年3回獲れると聞いたことがある。広辞苑をひくと、
<ロシアに多く栽培。夏ソバ・秋ソバに大別。茎は赤みを帯び、花は白。(小生註今は赤い花もあるようだ)収穫までの期間が短く、荒地にも良く育つ。>だけの説明である。収穫までの期間が短いということは、収穫した後すぐ種を播いておけば、再び収穫できるということなのかも知れない。
終戦直後辺りまでは、私の地方でも多く栽培され、蕎麦畑の光景も珍しいものではなかったが、今ではすっかり姿を消してしまった。

ところでこんどは、そば家で食べる「日本蕎麦」の話に移る。
単に〝セイロ〟や〝ざる〟に盛ったものを、小さな器で〝つゆ〟をつけて食べるだけの作業だが、なかなかこれに難しい礼儀作法があるらしい。

以下「太陽」平凡社(1998.12)特集◎そばを極める『そば家と美味しくつきあう十か条』文・イラスト=林家たい平から、抜粋した。(文とイラストは省略箇条書きだけ記す)それによると、

開口一番「もり1枚」、なんて気負ったら負け。
落語界のホープが「通のイロハ」をこっそり伝授。
「なかなかやるな」と主人も唸る、そば家攻略(10か条)の1席

1.自分だけの名店探しから始めるべし
2.ポール・ポジションに座るべし
3.いきなりそばをたのむべからず
4.もりに始まり、もりに終わるべし
5.真の満腹は心の満腹、と心得るべし
6.まずはつゆをつけずに味わうべし
7.ちょいとつける、が肝心
8.薬味を楽しむべし
8.音を立てて、元気よくすするべし
10.そば湯でシメるべし。

軍人勅諭だって5か条しかないのに…。

飛行機の話

2006-10-02 21:22:52 | 怒ブログ
YS11の引退ニュースが、新聞の隅っこにあった小さな記事なのに、ネット上ではごくいち分なのかどうか知らないけれど、愛しむ声の多いのにはたいへん驚いている。

ボクは中学時代学徒動員で、旧海軍飛行機関係廠に、航空機の修理に携わった経験があるので、旧軍用機についてはある程度の知識や、関心もあるし、本屋の店頭で「丸」などという旧軍用機専門の雑誌も一応の目は通している。

 しかしいまの自衛隊の、ジェット戦闘機については皆目分からなかった。
プロペラ機でも、昔のようなレシプロエンジンでないのを知ったのは、「飛行機の本」木村秀政(新潮社)によってである。

 即ち、YS11のエンジンは、ロールス、ロイス社のターボプロップエンジンなのであった。

ここで、その「飛行機の本」からYS11について書かれている部分を引用する。

 YS11の、滑走距離が短くて、運行費が安いというのは、輸送機設計に於ける重要な日本的性格である。飛行機の速度を増す為には、翼を小さくしなければならぬ。その結果、離陸や着陸の時長い滑走が必要になるということはごく明らかな理屈である。…(略)…。
 そこでわれわれは、こういう短い滑走路で使えることを設計の設計の一つの目安にし、この要求を充たすために、ターボプロップを採用した。ジェット機時代と言われているのに、今更プロペラ機でもあるまいという批判も聞いたが、滑走距離を短くするためには、どうみてもプロペラ機の方が有利なので、これにふみ切った。

 ただ、YS11に使われているのは、同じプロペラエンジンでも、昔のピストン式のものではない。ジェットエンジンの本体であるガスタービンにプロペラをつけたもので、その作動の合理的なことは、ジェットエンジンと変わらない。だから、今までのピストン式に比べて、馬力当たりの重量が半分以下で、信頼性が高く、その上、振動が少ないので乗り心地がいい。…(略)