狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

山廬忌

2006-10-05 22:14:21 | 本・読書

ネット俳句に
 山廬忌や 連山 けふも雨ならん  南風子

という南風子さんの句が載った。ボクが彼女のHPに、中学時代〝「水泳」という蛇笏の文を読んだ事がある〟とコメントしたら、早速〝どんな文でしょうね〟というご返事を頂いた。
そんなに長い文ではないので、書き写すことにした。
これは『国語』という昭和9年岩波書店が発行した唯一の中等学校用教科書である。
 ボクは、この復刻版を入手して保存している。全十巻(5年制1学年2巻使用)であるが、戦争により、実際に使用したのは、巻4(あるいは巻3までかもしれない)までであった。
この「水泳」は巻1(1年1学期用)に載ったものだ。

 この復刻本『国語』は10巻1セットで、
 編纂趣意書・解説・総目次等の小冊子の付録がある。
次はその「解説」の中にある興味深い1節だ。

>(略)…1934年に刊行されたものである。当時の中等教科書の検定は、進学率90%を越える今日の高校教科書に対する検定よりも、はるかにゆるやかであった。しかし時代の支配的思潮による強い制約があり、著者が自分の思い通りの教科書をつくることはできなかった。というのは文部省訓令としての中学校教授要目があって、そこから逸脱することは許されなかったからである。1931年2月に改正された教授要目にある「国語漢文」のうち『国語』に関係のあるところをみると、国語の購読では読方と解釈、話し方・暗誦・書取を課すこととしたうえで、その材料について、次のように規定していた。

「其ノ材料ハ総テ文章ノ模範タリ而シテ国体ノ精華、民俗ノ美風、賢哲ノ言行等ヲ叙シ以ッテ健全ナル思想、醇美ナル国民性ヲ涵養スルニ足ルモノ、文芸ノ趣味ニ富ミテ心情ヲ高雅ナラシムルモノ、日常ノ生活ニ裨益アリ常識ヲ養成スルニ足ルモノ等タルベシ」


      水泳          飯田蛇笏
 私は、水泳を好んでした。
 あまりに幽邃な谷川の邊は気味が悪かったので、いつも自分より年上の友達を誘ってはそこへ出かけた。  
山地の荒畑を通りぬけて、緑竹の混じった雑木林を降りてゆくと、直ぐ眼の下に蒼々と湛へられた谷川の水が見える。それは、友達同志が幾日もかゝつて、乏しい谷川の水を堰き切って拵へた、吾等にとっての貴い水泳場である。これを拵へるには、あたりの積石を拾ひ集めて丹念に積み上げ、石と石との隙間へは近傍の雑草をむしって来て詰めたものである。石を運ぶ時、水の中を運ぶとたいへん軽いことがわかって、手頃の石をよちよちと運んで行くと、不意に水底の石車にのって倒れる拍子に石を取落としてしまひ、がぶりと一呑み水を飲んだりする。鼻腔から脳天へかけて、一種香ばしい痛さが沁み通る。そんな時は、すぐ年上の友達がやって来て、苦もなくその石を拾い出して堰提に積んでくれる。私が雑草をひきむしってゐる間に、彼等はあたりの懸崖の一端を一抱へちぎって来て、堰堤の大洩れするところへたくみにあてがふ。かくてどうどうと堰堤を越え落ちる水は吾等にこの上もなく愉快な響を与へた。
水のよく澄んだ時、そっと行って見ると、群をつくった柳鮠が、静かに泳いでゐるのが見えた。
年上の友達は、雑木林を下りる時、すでに早く兵児帯を解いてゐる。一行は岸に付くや否や著物をかなぐり捨てて、いっせいにざんぶとばかり溜り水をめがけて飛びこむ。さうしてしきりに浴びぬいた末は、てんでに唇を桑の実色にして顎たゝきをしながら、夏日の直射する岩の上へ這ひのぼって、猿が餌をたべる時のやうな格好をして日影に浴する。少し黄色みを帯びた日光は、さながら、秋の日影を見るやうな静寂な感じを与へる。
午天近く、私たちは雑木林をぬけて帰る。眼前に展開する荒畑のふくむ暑気が、心地よく身邊をつゝむ。痩桑に昼顔が絡まって咲いてゐる。えのころ草の穂が、陽炎をあびながら、あるかなきかの熱風にかすかに揺られてゐる。私はその一穂を摘みとって、爪をあてて二つに裂き、鼻の頭へ持っていって、鼻を跨がせて鼻天狗の真似をしてみた。草穂の、甘ったるい妙な匂が臭覚を掠めた。
何心なく足の先をながめた時、平生の泥足が俄に奇麗になってゐることに気がついて、急に不安が襲ってきた。家庭から水泳ぎを禁じられてゐた私は、友達と同じやうにこのまゝ帰っていった日には、直ぐ母に気づかれて叱られるにきまってゐる。しかしさういふ不安を友達に看破されるのは厭であった。私の心は、友達のやうに快濶に自由に、自然の児として振舞ひたい欲望に満ちて居たから。
私は家に帰って、落ち着かぬ気持で昼飯の膳に向かった。
     (雲母)