私は、どうして朝日新聞の編集部がいつも佐伯啓思に戯言を述べさせるのかわからない。彼は、『異論のススメ』と言って、いつも、欧米の民主主義、普遍的価値、一神教の悪口を言って、社会に偏見を広めている。今回は「一神教」を非難している。
彼が悪く言う「民主主義」とは、「代議制民主制」であり、「民主主義」でない。歴史的には、ヨーロッパの議会制は人々を抑え込むために導入したものである。しかし、暴力が政治の前面に出るよりは、選挙と言う平和的なやり方のほうがましである。ハンナ・アーレントの言うとおり、人々の政治への無関心を打ち破る地道な努力が求められる。統治者と統治される者は政治的にも社会的にも経済的にも対等ではない。統治される者は、より高い自己意識と権利意識が求められる。
人間社会は利害の対立する集団からできている。その集団を階級と呼んでも良いし、民族と呼んでも良い。それらの間で妥協が成立するには、何か「普遍的な価値観」が必要となる。したがって、「普遍的価値」の中身が問題で、「普遍的価値」を求めること自体が悪いのではない。「普遍的価値」は「絶対的真理」ではない。
「一神教」も「多神教」も優劣があるのではない。問題は宗教を信じるという行為の危険性である。統治者は人間の宗教を信じる特性を利用するからだ。
「一神教」といっても、いろいろある。
ユダヤ教の神は「民族の守り神」である。ユダヤ教の神は「ヤハウェ」という個人名がある。ユダヤ人はほかの神に尽くしてはいけないというのが、ユダヤ教の本質である。長谷川修一やトーマス・レーマーが述べているように、国を失ったユダヤ人が団結を保持するためにヘブライ語聖書書(旧約聖書)は書かれたものである。いわば、偽書である。
20世紀前半に生じたユダヤ人問題は、ユダヤ人社会が取り巻く社会に同化を進めていたにもかからわず、中欧、東欧で起きた民族主義運動が、ユダヤ人の同化を拒否し、排除し、絶滅に手を貸したことである。ドイツのナチス政権だけでない。ポーランドやウクライナの民族主義者も手を貸したのである。
このとき、英国や米国の政府は、ユダヤ人の避難民に冷たかった。受け入れを絞った。それが、1948年のパレスチナのユダヤ人の国、イスラエルの建設につながったのである。国連はその前年にパレスチナの地をユダヤ人とアラブ人に2分すると決議している。この国連決議を破って、イスラエルはパレスチナの全土を占領しており、先に住んでいたアラブ人を高い塀に囲まれた狭い土地に閉じこめている。これがガザやヨルダン川西岸の現実である。
「平等」「自由」は人間にとって普遍的価値であるはずに、守られなかったことに、現在のパレスチナ問題がある。
これは「一神教」という問題もでない。「多神教」のヒンドゥー教のモディ政権もインド国内でイスラム教徒を抑圧するという問題が起こしている。40年前に、インドから来ているポストドクターからインド政府の横暴の話を私はカナダで聞いている。
人間の心には強欲さや残忍さが潜んでいる。いや、潜んでいるのではなく、それに突き動かされている人間もいる。民族の歴史意識の問題ではない。
佐伯啓思の次の結論は、私にとって、決して受け入れることのできないものである。
「日本の歴史意識の希薄さをわれわれは自覚すべきである。と同時に、21世紀おいてもなお一神教的世界が作り出した歴史観が世界を動かしていることを知るべきである。」
彼は偏見を広めるデマゴーグである。
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