最近、テレビのコメンテーターのなかに、自由主義が「善」で共産主義が「悪」であるかのように語る人が増えてきた。自民党が好きで共産党が嫌いというのは、好みで、そう思うのは人の勝手である。しかし、イデオロギーに善悪をつけてくると、薄気味が悪い。約70年前のマッカーシーの赤狩りを思い出されるからだ。
1930年代に大恐慌(大不況)がアメリカをはじめとして全世界を襲った。民主党のフランクリン・ルーズベルト大統領は、大量の公共事業を起こし、失業者を救った。ニューデール政策である。
この反動として1950年代に、共和党議員のジョセフ・マッカーシーが反共産主義運動を起こした。議会の公聴会に「共産主義者」の疑いがあるものを呼び出し、公開の場で罵倒し、アメリカ合衆国連邦政府やマスメディアやアメリカ映画界から追放した。
「共産主義」者を追放するのが「自由主義」というのは、あきらかに、言論や思想の自由に矛盾する。
じつは、この「共産主義」「自由主義」という訳語がおかしいから、このようなことが生じるのだ。「共産主義」というのは、「私的所有」を否定、あるいは制限する考え方である。「自由主義」とは「私的所有」を「個人の自由だ」と肯定する考え方でる。
橋や道路や鉄道を作ることが個人事業であった時代に、民主党のルーズベルト大統領が、金持ちから税金をとって、公共事業を行ったのだから、これを「共産主義」だと思って、怒るお金持ちがいてもおかしくない。
しかし、公共施設や公共事業は社会に必要なのだ。J.K. ガルブレイスも『ゆたかな社会』(岩波文庫)で、アメリカは道路や図書館などの公共施設が貧相すぎると怒っている。
「私的所有」を過度に主張する社会になると、公共施設がおろそかになり、道路を通るにも、橋を渡るにも、その所有者に使用料を払わないといけなくなる。現在、私たちの周りには、共有の施設がいっぱいある。それは、「私的所有」では不便だし、「共有」が必要だからだ。
また、「私的所有」を安易に認めてしまうと、金持ちは生活に必要とする以上の所得があるから、投資してますます金持ちとなる。経済的格差が広がらないためには、累進課税制を設け、「私的所有権」に制限をかけないといけない。これを昔から「再分配」と言ってきた。
つまり、日本はそんなに「自由主義」社会であったわけではなく、部分的に「共産主義」社会であったのである。それが、「自由主義が善で共産主義が悪」となると、道路や橋が個人の所有物となるだけでなく、お店や工場や耕作地などの生産手段をもたぬものはますます貧乏になり、働くことに喜びがなくなる。
「共産主義」は決して突拍子もない考え方でない。常識的な人が受け入れてきた考えであり、守るべき考えである。
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