極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

オリーブの木の下でⅠ

2012年08月16日 | 時事書評


 

【オリーブの木の下で】

盆の施餓鬼供養ということで宗安寺に席順を取りに出かけ、供養が始まるまで時間があるので二人で図
書館に立ち寄る。借りていた本を返し、それじゃということで二冊かりることにしたが、一冊はモート・
ローゼンブラム著の『オリーブ賛歌』を借り、供養を終え予定の作業と夕食を終え読みはじめるが、と
てもじゃないということで途中で放り投げて残りは明日にでもということで、ブログに感想を打ち込む
ことにした。

「クリスマスに工芸家の友人が遊びに来たとき、切り取ってあった古い枝で銀器用の柄を彫ってくれた。
ある朝、わが家のオリーヴ園のささやかな初収穫を持って、トゥルトゥルにある十六世紀の採油所に行
き、マルセル・パ二ョルの小説から抜け出たような二人が、水力式の石臼やオーク材の柱で支えられた
搾機を操るさまを見守った。どろりと濁った黄金の液体が澪み出て、素焼きの壷に流れこむと、私は
パン
をつけて味見した。オリーヴ礼賛の詩が書けそうなうな気がした」と吐露しモート・ローゼンブラ
ムは
『オリーブ賛歌』を書き上げる。そして、
先史時代から今日に至るまで、オリーヴは地中海文化の
隅々にまで浸透してきた。アリストテレスはオ
リーヴについて思索し、レオナルド・ダ・ヴィンチは近
代的な圧搾法を考案した。古代エジプトのファラ
オはオリーヴをかたどった黄金色の彫刻とともにピラ
ミッドに葬られた。古代ギリシア人は闘技者の体に
大量のオリーヴ泊を塗ったため、オイルをこすり取
る「垢落(ストリギル)とし」という弓なりの道具までつく古代オリンピア競技会の聖火に使われたの
もオリーヴの技である。古代ローマにはオリーヴ油専用の取引市場と商船隊があった。勝利した剣闘士
には、ローマ皇帝と同じく、オリーヴの冠が授けられたと、筆を繋ぐ。それでは、オリ‐ヴの栽培が始
まったのはいつ頃うだろうという疑問が湧くが、聖書の草稿がパピルスに記された時には至る所にあっ
たのだという。


オリーヴ讃歌

そして、イスラエル初代の王サウルは、頭にオリーヴ油を注がれて王となった。「メシア」とはヘブラ
イ語で元
来「油を注がれた者」を意味する。救世主が現れるとしたら、それが男であれ女であれ、オリ
ーヴ油をた
っぷり塗られることになるはずだ。ソロモンの神殿の扉はオリーヴ材でつくられ、四つの顔
と翼をもつ巨大
な智天使の像が刻まれていたし、ユダヤ人は、シリアの支配からエルサレムを奪還し、
紀元前 164年に神殿を再奉献したとき、神殿の
常灯が油もなしに8日間燃えつづけたのを見て、ハヌカ
ー(神殿奉納)の奇跡を叫んだ。このとき彼らが
使っていた燃料はオリーヴ油である。ローマ軍に包囲
されたガリラヤ人が敵に浴びせた煮えたぎる油も、
オリーヴから搾ったものだ。東方の三博士は、きっ
とコールドプレスのヴァージン・オリーヴ油を携えて、
飼葉桶に寝かされた幼子イエスのもとを訪れた
に違いない。現在でもヘブライ語では善人を意味する慣用
句として「純粋なオリーヴ油」という言い方
をするという。また、
キリスト教徒にとっても、オリーヴは同じく神聖なものとして、フランク王国初
代の王クローヴィスⅠ
世が王位につくことができたのは、天から遣わされた鳩が、折よく神聖なる即位
の式に、聖油の壜をくわ
えて現れたためだという。 481年のことである。その洋梨形の壜は、サン・レ
ミのバシリカ聖堂に保管
され、以後34人のフランスの君主に聖油を塗る際に使われてきた。旧約・新約
聖書には、オリーヴ油
が計140回も登場し、オリーヴの木にふれたくだりは百か所近いという。



預言者ムハンマドは、アッラーの神聖な光を、灯明の燦然たる輝きにたとえた。灯明の油は、「東国の
産でもなく、西国の産でもない、祝福されたオリーヴの木」からとられたものだ。チュニジアにあるイ
ラム最古の高等教育施設は「ジトゥーナ」すなわちオリーヴの木という名をもつ。キリスト教徒やユ
ダヤ人ばかりでなく、イスラム教徒にとっても、オリーヴは知恵と豊饒と平和の象徴だが、オリーヴは
数千年にわたり、争いの象徴ともなってきた。今もなお、オリーヴは聖地パ
レスチナの政治状況と切っ
ても切れない関係にある。ヨルダン川西岸では、イスラエル側もパレスチナ側
も、土地の所有権を示す
ためにオリーヴを植える。パレスチナ人が立ち上がると、イスラエルは即座にすさまじい
報復をする。
オリーヴの木のうしろから石がひとつ飛んだだけで、ブルドーザーがやってくる。昔からのオリーヴ畑
が無惨につぶされ、所有者の家族には何代も後まで癒しがたい傷が残るというのだ。



また、オリーヴの本に囲まれて暮らしている人々は、空気がきれいで、生活も満ち足りていると口々に
言う。彼らは当たり前に奇跡を信じている。南仏アルルのジャンヌ・カルマンは、121歳の誕生日に、
世界一の長寿の秘訣を問われ「オリーヴ油ね」と答えたという。毎食のように使い、肌にも毎日すりこ
んでいる。古のプロヴァンス人は、「枝切る者には富をやろう」という諺をつくった オリーヴの実が
熟していくのを見るのは、どこか原始的な感情を揺さぶるすばらしい経験である。10月には色づきはじ
め、まず斑点のある薄紫色になり、次いで赤と紫のグラデーションがしだいに色濃くなり、12月に入る
頃にはもう黒くなっている。イタリア、トスカーナでは、その頃にはもう収穫を終えている。ぴりっと
苦みのある若いオイルを好むのだとその素晴らしさを語る。



また、ニューズウイーク」の中東・地中海沿岸地域の専門家として活躍している友人クリス・ディッキ
の主張するオリーヴ政治理論は、世界情勢の背景を見事に解き明かしてくれるという。彼は、オリー
ヴが地中海文明を育む一方、この地域の不安定化要因ともなってきたことを跡づけた。キリスト生誕よ
り一千年も昔、
まだキリスト生誕よりペリシテ人が輸出を支配していた時代のことだ。古代フェニキア
人からヴェネツィア人に至るまで、オリーヴ油貿易は覇権への鍵だった。ホーエンシユタウフェン朝最
後の13世紀の神聖ローマ帝国皇帝で偉大な王フリードリヒⅡ世は、ゲルマンの専制君主だが、生まれは
オリーヴの繁るイタリアだった。彼はシチリアを征服し、十字軍で聖地を奪回してエルサレム王国の王
位についた。

ディッキーによると、アラブ人同士が決してまとまらないのは、オリーヴの育つ土地と育たぬ土地を分
ける「オリーヴ油」があるからだ。ヨルダン川を越えると砂漠が広がり、遊牧民ベドウィンの心は砂丘
のように変わりやすい。パレスチナと地中海東岸地方の人々はそれとはずいぶん違う。「
オリーヴがな
いとうに変わりやすい。風に吹き飛ばされる紙くずのような気がする」ヨルダン川西岸の町ジエニンの
商人が以前ディッキーに言った。「オリーヴはこの土地そのものなんだ。ひとつところに20年、30年と
住んでいると、胸のうちで、体の奥で、それがわかる。私らはオリーヴの木から生まれたようなものさ
」。待てよ、これは「オリーブ油」を「石油」と置き換えれば現代でも通じる話なのだと。



さて、オリーヴは、学名オレア・エウロパエア(Olea europaea)といい、モクセイ目を構成する唯一の
科、モクセイ科に属する。ジャスミンやライラックは親類にあたる。頑丈な木材となるトネリコは、分
布領域も、性質もまるで違うが、やはりモクセイ科の仲間であるが起源については推測する以外にない
という。デイヴィッド・アッテンボローがテレビ・ドキュメンタリー『地中海』で語った説も、推測に
すぎないという点では同じである。それによると、数百万年前、地中海はいったん消滅した。
大陸の移
動でジブラルタル海峡はふさがれ、地中海は干上がった。しかし、なぜか突然、再び海峡が破れ、水が
どっと流れこんだ。地中海東部の島々や沿岸に鬱蒼と繁る木々の中に、野生のオリーヴが姿を現した。
いつのことかはわからない。紀元前3万7000年の葉の化石がエーゲ海のサントリーニ島で見つかっかり
この小ぶりな野生種は今も無数に見られる。
紀元前6000年頃かそれ以降に、小アジアの農民が、野生の
オリーヴを接ぎ木や挿し木で殖やし、栽
培できることを発見したのだと。ギリシアの島々でもオリーヴ
を栽培した。古代エジプト人もオリーヴを崇め
オリーヴの起源はナイル・デルタだという説もある。か
つてナイルの岸辺にはオリーヴが豊かに繁ってい
た。確かなことはだれにもわからない。オリーヴの木
はアダムの時代からあったとする古い伝説さえあるのだ。




それでは神話から起源を推測すると、ゼウスはアクロポリスのあるアッテ
ィカ地方の支配者を選ぶため、
技競べをおこなった。人間により有益な贈り物をした方が勝ちとなる。ポ
セイドンが岩に三叉の鉾を突
き立てると、馬が棒立ちになって現れた。馬があれば人間は遠くへ旅し、戦
に勝ち、重い荷物を運ぶこ
とができる。アテナが創ったのはオリーヴの木だった。別の説もある。ゼウスの息子で、地中海的なも
のすべての象徴であるヘラクレスが、何もない地面に梶棒を突き刺すと、オリーヴの葉が生えてきたと
いうものだ。紀元前五世紀、ギリシアの抒情詩人ピンダロスは書いた。「ギリシアの民の審査を務める、
アイトリア生まれの公正な審判は、ヘラクレスに端を発する古来の習わしに従い、灰色の栄えあるオリ
ーヴの冠を勇士の髪と額にかぶせる。はるかな昔ヘラクレスは、木暗いドナウの水源から銀色のオリー
ヴの木を持ち帰り、オリンピア競技会の輝かしい象徴とした」このピンダロスの作品を英訳したウィリ
ス・バーンストンは私の友人で、インディアナ大学で教鞭をとるためアメリカに落ち着く前は、ギリシ
ア、スペイン、北アフリカでオリーヴに囲まれた半生を送った。
彼もまた、オリーヴの起源について独
自の見解を述べている。「神は言葉によって宇宙を創造するため
まず文字を創った。その頃神はヘブラ
イ語を使っていた。ヘブライ文字の形がお気に召したので、神はそ
れらの文字をオリーヴの木に変えた
創造の神秘を解き明かしたいと願うなら、オリーヴの枝ぶりが描き
だす筆跡に目を凝らすのがいちばん
だ」時とともに、オリーヴは近東やクレタ島周辺から広まった諺文明になくてはならないものになった。
オリーヴは地中海の通貨であり、アッシリア、エジプト、ギリシア、ペルシア、ローマといった地中海
沿岸の大帝国では、数多の芸術のモチーフともなった。古代遺物の逸品の中には、オリーヴにまつわる
美術品もある。ギリシアの壹、ミノス文明のフレスコ画、エジプトの浅浮彫、彫刻を施したローマの銀
器、カルタゴのモザイク。細長い竿でオリーヴの実を収穫する人々の姿も描かれている。現在よく見ら
れる収穫法とまったく同じである。

Pelop krieg1.png

紀元前431年、アテネを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟が衝突したペロ
ポネソス戦争の時代には、平和の象徴であるオリーヴの木が、戦闘の形を大きく変えることになった。
ギリシアの都市は堅固な城壁に守られて発展した。包囲する側が閉じこめられた市民の士気を挫く手段
は、兵糧攻め以外にない。しかし、歴史家ジョン・キーガンによれば、オリーヴがあると、そう簡単に
はいかなかった。オリーヴの本は焼かれても次の季節にはまた芽吹く。そのため、根こぎにするしかな
い。スパルタ側の侵略軍は農民ならぬ戦士であり、何か月もシャベル仕事に精を出す柄ではなかった。
一方、防戦するアテネ側は、士気が萎えるどころか、憤怒をもって立ち上がり、愛するオリーヴを守る
ために打って出た。アテネ側がついに敗れたのは、オリーヴが徹底的に破壊され尽くしたあとのことだ
った。
そして、ギリシアの植民者は、起源前8世紀紀から5世紀にかけてシチリア島にオリーヴを持ち
こみ、オイルとワインで得た富でシラクーザという見事な都市を築いた。さらに、危険なスキュラの巨
岩と大渦巻カリュプディスの間をすり抜けて、荒れ狂うメッシーナ海峡を越え、イタリア本土ヘオリー
ヴを伝えた。ギリシア人とフェニキア人は通商略を拡大し、西のフランスやスペインに、あるいは地中
海の対岸にあるチュニジアにオリーヴをもたらす。



オリーヅを意味するラテン語のoleaは、ギリシア語のelieaから来ている。ローマ人は北アフリカとフラン
スに大量のオリーヴを植えた。スペインではわざわざ植えるまでもなかった。セビーリャを襲撃した

エサルの軍団は、町を取り囲むオリーヴの林を馬で通り抜けるのがやっとだった。しかし、ムーア人の

侵略者はさらにおびただしい苗木を持ちこんだ。オリーヴを表すスペイン語「アセイトゥナ」と、油を
す「アセイテ」がアラビア語に由来するのはそのためで、十世紀には、オリーヴの林は南欧から北ア
フリカー帯の地中海沿岸に広がり、地中海の島々を覆ってい
た。1500年代には、スペイン人征服者に続
き、宣教師たちが新大陸にオリーヴをもたらした。その後
イタリア人移民が南米、オーストラリア、南
アフリカにオリーヴを広め、
現在、世界には約8億本のオリーヴの木がある。中国は2千万本で、フラ
ンスの四倍にあたる。アフリ
カの奥地、アンゴラにも小さなオリーヴの木立がある。オリーヴは六大陸
に見られるが、90パーセント
は地中海沿岸で栽培されている。オリーヴ油といえばイタリアを連想する
が、スペインの方が本の数は多いー
イタリア人が欧州連合(EU)の補助金をもらうためにでっちあげ
た分を差し引けば、はるかに多
い。しかもラベルにイタリア産としるされたオリーヴ油は、実際にはス
ペイン、ギリシア、トルコ、チュ
ニジア産であることが少なくないと述べている。

と、まぁ~。ここまで打ち込んだものの感想など書ける状態でないが、どでかいテーマにいささか疲れ
もあり、食
傷感が漂ってしまっている。これは5日連載程度にしないと気が済まないというのが今夜の
感想ということになっ
た。
 

 

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