Pollo al Mattone (or al Diavolo)
【鶏肉のれんが焼き(悪魔風)6~8人分】
れんが(マットーネ)で重しをし、悪魔(ディアヴオロ)のように熱々に焼き上げたこのトスカーナ
風鶏肉のグリル。なにもれんが(煉瓦)でなければいけないということでもなくて、鉄鍋蓋(南部鉄
なら岩手特産になる?)や漬け物石でもいいわけだけ。
材 料:エクストラヴァージン・オリ-ヴ油 11/2カップ、塩 小さじ1、ひきたての黒胡椒 大
さじ1、赤唐辛子(刻む) 大さじ1、ローズマリー(生・刻む) 大さじ1、イタリアン
パセリ(刻む) 大さじ1、タイム(生) 大さじ1(乾燥させたものなら、つぷして小さ
じ1)、若鶏3羽(小さいものは半分に、大きいものは6つから8つに切り分ける)、レモ
ン汁 1個分、模形に切ったレモンの皮(飾り用)
作り方:オリーヴ油に塩、胡椒、唐辛子、ローズマリー、パセリ、タイムを混ぜ、ふたをして最低2
時間置いておく。鶏肉の余分な脂肪を取り除き、皮を下にしてまな板にのせ、包丁のみねで
トントンと叩く。これを大きなバットに入れ、風昧づけしたオリーヴ油をまわしかけて、時
々上下をかえしながら最低]時間マリネする。熱したグリルに皮目を下にして鶏肉をのせ、火
から20センチほど離して、残ったオリーヴ油にレモン汁を加えたものをかけながら焼く。途
中で1度ひっくりかえし、15分ほど焼いて透明な黄色い肉汁が出るようになればできあがり。
【オリーブの木の下でⅤ】
さて、昨夜の続き、第七章「マフィアとオリーブ」から。
ローゼンブラムがマドリードで出会ったあるオリーヴ生産者は、アメリカ市場を独占支配しているイ
タリア人の悪口を並べ立てたあげく、肩をすくめて言った。「『ゴッドファーザー』を見ただろう?
」 映画マニアならだれでも憶えているだろうが、ドン・ヴィート・コルレオーネが撃たれたのは、
自らの帝国の中心部、マンハッタンで営んでいた家業のオリーヴ油ビジネスのせいではない。しかし
オリーヴ油とマフィアの関係については長年さんざん聞かされてきたので、マリオ・プーヅォ本人に、
『ゴッドファーザー』のためにどういう調査をしたのか訊いている。
「私はオリーヴについては何も知らないし、本物のマフィアのことなんてなおさら知らないね」とプ
ーヅォは答えている。「マフィアなんて本当にいるのかね? あれはすべて私の創作だ」むろん、マ
フィアはプーヅォの想像の産物ではない。「『ゴッドファーザー』は非常に重要な作品だ」その後、
ニック・ビレッジは彼に言った。ビレッジはAP通信にいた頃から徹底的な調査をおこなうジャーナ
リストで、ニューヨークのマフィアの世界でうまく生き抜こうとする男たちを描いた『ワイズガイ(
グッドフェローズ)』(徳間書店)の著者だというが、ニックがくれた連絡先をもとに調査する。、
その結果、ほぼ百年にわたり、オリーヴ油はマフィアにとって、コンクリートを履かせて海に沈める
手口同様なくてはならないものだとわかる。シチリア・マフィアが初めてアメリカに根づいたのは、
南北戦争直後、黒人奴隷が解放されて南部の農園を離れたあと、ルイジアナ州にイタリア人農業労働
者がやってきた頃にさかのぼる。二十世紀初頭には、マフィアにとって守らねばならない利益も増大
しており、ニューヨーク市警のジョー・ペトロジーノ刑事が、パレルモで犯罪者の調査中、マフィア
の殺し屋に殺される事件も起きたという。マフィアの犯罪活動の中には、大都市で急増していたイタ
リア移民のために、本国から主要食料品を輸入する仕事もあった。アーティチョーク販売を取り仕切
る大物やチーズ王のほか、言うまでもなくオリーヴ油取引の大御所もいた。至極当然のことである。
これはイタリア人社会の需要を満たすものだった。まともなイタリア人の母親なら、ミネストローネ
に入れる黄色く濃厚な南部のオリーヴ油なしには、一週間ともたないだろう。こうした食品ビジネス
は、合法的かつ手頃な隠れ蓑にもなった。シチリアから来たマフィアは、どこに行けば安定した供給
が確保できるか知っていた。儲かるとはいえ、本格的なライバルが現れるほど莫大な利益を生む商売
ではなかったという。
1933年に禁酒法が廃止されると、こうした食品業は急成長した。「大勢が密造酒を運ぶトラックを持
っていたが、急に運ぶものがなくなってしまった。合法的なアルコール販売業に乗り出した者もあれ
ば、オリーヴ油販売を始めた者もいた。いくつものファミリーが関わっていた。プロファーチ家がオ
リーヴ泊販売を始めたとき、彼らにとっては初めての合法的なビジネスだった」ビレッジは説明する。
しかし、「名誉ある男」たちは無謀な競争者が現れると少々手荒に脅迫して、さまざまな領域でむり
やり市場を独占しようとしたのでは?「まあ、そうだね」ビレッジは笑った。「彼らと張りあおうと
思ったら、相当荒っぽい輩を相手にしなきゃならないからね。でもまあ、石油でロックフェラーと張
りあったり、鉄鋼でカーネギーと張りあったりするのとはわけが違う。あくまで自由企業体制なんだ」
第二次大戦後、イタリア食材への需要は高まった。イタリアン・レストランはますます多くのオリー
ヴ油を必要とするようになった。のちに至るところにピザの店が出現しだすと、オイルだけでなく、
チーズとトマトペーストの市場も拡大した。レストラン経営はマフィアの活動にとって恰好の隠れ蓑
となる。仲間も部外者も、口実をつくる必要もなく、好きなだけ立ち寄ることができた。奥の部屋で
何が話し合われ、何か売買されようと、警察が監視するのは難しかった。と、書いている。
1940年代にはすでに、マフィアのボス、ジョゼフ・プロファーチは「オリーヴ油王」として頭角をし
ていた。ニューヨークおよびニュージャージーの港を支配下におき、全米各地でオリーヴ油を販売す
る他の「支部長」とも取引していた。ジョン・カミンズとアーネストフォルクマンは『ゴンバータ』
の中で、のちの「コロンボ・ファミリー」を牛耳っていたジゼフ・プロファーチは「とてつもないけ
ち」だったと書いている。彼は大富豪だった。さまざまな闇商売による莫大な収入があるにもかかわ
らず、自らの合法的な事業、すなわちオリーヴ油販売でも、ニューヨークの市場をほぼ独占支配し、
家庭的で、敬虔なカトリック教徒であるにもかかわらず、残忍だという噂がつきまとい、地元の麻薬
常用者が、プロファーチの通う教会から聖母像の冠の宝石を盗んだ。マフィアの世界で「オリーヴ油
王」として知られるこの男は、泥棒を何時間も拷問させ、最後にロザリオで絞め殺したという。
そんな、プロファーチは、細長く鋭角的な顔に尖った鼻をした、身なりのいい小柄な男だった。家庭
を大事にするプロファーチは、愛人を持ったことのない数少ないマフィアの大物のひとりであり、披
がナイトクラブに行く姿を見た者はひとりもいなく、カトリックの友愛組織、コロンブス騎士会の一
員であることを誇りにし、ほとんど家から離れず、自分の商品より上等なオリーヴ油をかけた食事を
楽しんだという。
ローゼンブラムはシチリア島に向かう。彼は以前り向かうのに忙しく、オリーヴ油などを調べている
暇はなく、マフィアの町として有名なコルレオーネは、ロバと黒いストッキングの老婆のいる、丘の
上の魅力的な石造りの町で、周囲にはオリーヴの古木やレモンの木が生い繁り、穀物畑が広がってい
る。「ゴッドファーザー」ツアーの神経質なアメリカ人観光客を満載したバスが次々に訪れるように
なったせいで、町の経済状況は改善している。大物マフィアは結婚式と葬式ぐらいしか姿を見せず、
口も堅いというはローマに向かう。イタリアの当局者とローマを拠点に活動する捜査官に訊くと、彼
らの多くは匿名を条件に話してくれ状況は大きく変わる。彼らによると、イタリアのマフィアは麻薬
取引をめぐる内部抗争で弱体化したが、ロシア・マフィアとの新たな競争を乗り切るため、組織の立
て直しを図っている。アメリカにオリーヴ油を輸出しているマフィアは、もはやシチリア人ばかりで
はなく、マフィアの関係する輸入量は今では市場の一部を占めるにすぎない。今の犯罪組織は、組織
に属さない詐欺師と同じ方法で金を稼ぐ。良質のオリーヴ油に、ラベルの表示より安い油を、時には
より危険なものを混ぜるのもひとつの手口である。テッサロニキにあるギリシア科学技術教育研究所
のパウル・キリツァキスは、1990年の著書『オリーヴ油』の中で、オリーヴ泊輸出業者ならだれでも
知っていることを裏書きしているという。
オリーヴ油は国際市場において、他の植物油よりはるかに高値で売れる。そのため、オリーヴ油に安
い油を混ぜるという誘惑に駆られる者も出てくる。中には人々の健康に有害なものもある。混ぜもの
用の油として広く知られているのは……オリーヴ残滓油、トウモロコシ油、ピーナッツ油、綿実油、
ヒマワリ油、大豆油、芥子油などである。そのほか、ひまし油、豚脂(ラード)や他の動物性脂肪も、
時に少量ながら使われている。再エステル化処理した油や工業用の菜種油を使ったれいもあるという
のだ。
【シャープの失敗から学ぶもの】
テレビは、各家庭に最低1台以上は普及し、家族がその前で多くの時間を共有するという他には例の
ない電気製品。家電メーカーにとってテレビはこれからもキーとなる製品であり続ける。パソコンや
ゲームに置き換わるようなものではないだろう。ただ、国内メーカーが中核のそのテレビ事業を放棄
させられるまで追い込まれているのも事実。では、なぜ国内メーカーの薄型テレビがほんの数年でこ
れほどの苦境に陥ったのか。その失敗の本質を探るには、液晶ディスプレイと液晶テレビ、それぞれ
の敗因について分析しなければまらない。
まず第1の液晶ディスプレイでの最大の敗因は「投資戦略の失敗」に行き着きつく。その原因の1つが
液晶パネルについて、1998年から2003年までのこの事業の「営業利益と設備投資額」の関係は「利益
が出た翌年には設備投資を行うが、赤字になったら絞る」という単純な行動様式あったとされ、それ
は、「リスクを嫌うサラリーマン社長的(→番頭はん・丁稚型経営)」な日本に対し、韓国、台湾メ
ーカーは「営業損益の状況にかかわらず長期的な設備投資拡大のトップダウン型型」にあり、特にサ
ムスン・グループの李健熙会長が長期的なビジョンに基づき液晶事業に集中投資してきたことにある
とされている。
もう1つの原因は、過剰生産による価格の急速な下落への対応の遅れ。ここには薄型テレビでの「自
国至上主義、自前主義」へのこだわりがあだとなる。急激な価格低下に対してシャープの市場予測は
脆くも崩れます。堺工場が得意とする大型ディスプレイは、十分な収益が上がるほどの規模に市場が
育っていなかったため、世界的な液晶パネルの価格下落もあり、堺工場の稼働率は50%ほどという惨
憺たるものになる。部材から最終製品まで全て国内工場で生産するという垂直統合モデルは、「自国
至上主義、自前主義」に固執しグローバル時代に適合できないガリバー病となりように、市場の環境
変化に適応出来なくなったためだとされる。
そのことを踏まえ戦略を練り直すことは現実的には困難かもしれないが、答えはすでにでているよう
にわたし(たち)には思える。