極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

オリーブの木の下で Ⅶ

2012年08月22日 | 新自給自足時代

 

 

 

オリーヴ讃歌

 

【オリーブの木の下で】



戦争を取材する 子どもたちは何を体験したのか【入荷予約】  ぼくの村は戦場だった。


「『お母さんが庭に出たとき、爆弾が落ちたんだ。お母さんは意識がないのに何か言っていた。ぼくた
ちは泣いていた。お母さんのことは大丈夫よって、そばにいた人が言ったけど。でも、死んじゃった・
・・。お母さんの頭には穴が開いていた』 戦火の下で暮らす人々の真実の暮らし、想い、声がはじめ
て語られる。」「政治家の汚職、天然資源を巡る利権、麻薬、武器の密輸・・・。世界中に溢れるタブ
ーの地雷。 その地雷に触れたとき、ジャーナリストであっても命の保証はない。これは報道人としての
職業上のリスクと言える。しかし、泣き寝入りはできない。後に残された者たちが追求と告発の手を緩
めずに立ち向かっていくのだ」「少年達の未来を信じたい!地雷で脚を失ったアデム、ゲリラに誘拐さ
れ兵士にされたターティ、目の前で友達を殺されたアブドゥヌール……。明日をも知れぬ毎日ですが、
それでもみな、一日一日を懸命に生きています。」(山本美香の作品から) 


                                       

偶然なのかもれないかもしれないが、こういった経験は他の人より多いのもしれない。アレッポの市街戦
に巻き込まれ戦場ジャーナリス山本美香が取材中殺害される。生前の彼女の取材するビデオが流された。
映像ではアレッポの子連れの主婦が戦地を逃れ、オリーブの木の下で待避生活する模様がインタビュー形
式で撮られていた。そのこととは別にこのブログシリーズのタイトルと同じだ。かのウィリアム・シェイ
クスピアは『アントニーとクレオパトラ』で「世界に平和の訪れる時が近づいた。今日を幸ある日となし
えれば、世界は至るところにオリーヴを掲げることができるだろう」と詠ったようにオリーブは平和とは
裏腹の「繁栄と戦争」の象徴であることを四方や忘れてはじめたわけでではなかったのだが、極楽とんぼ
よろしく軽々に打ち込んできたことを悔やみもした。
                                            合掌

きょうは第十三章「戦場のオリーブ」から。  

ローゼンブラムは、ユーゴ紛争の取材でボスニアに入ったあと、車でクロアチアの海岸をまわり、避難民
を捜す。浜辺の町マカルスカで何千という難民を見つけた。かつてマカルスカは白い建物が並ぶ緑豊かな
リゾート地だった。ムスリム人が〈リヴィエラ・ホテル〉に住みついていたところへ、ヘルツェゴヴィナ
西部から追われたクロアチア人がどっと押しよせ、ムスリムを追い出して自分たちが入りこんだ。海辺の
ホテルは荒れ果てていたが、それでも国境の向こうで家を焼かれた家族には夢のような避難所だった。広
い庭の至るところで年ふりたオリーヴの美しい大樹が木陰をつくっていたものの、評判と違って平和をも
たらすことはなかった。それにどれもひどい状態で、高いひこばえが根元を囲み、伸びすぎた枝が込み合
っていた。だれが世話をしているのかと訊いたら、管理人の女性は大きな溜め息をついた。

「ここの木は……。単に世話をするのをやめてしまっただけ。そうするしかなかった。難民の子供たちは
みんな木に登って枝を析るし。いちばん困るのは、オリーヴの実をもいでしまうことね。オリーヴを弾薬
にして、戦争ごっこをするのよ。弾の代わりに投げるの」1999年に戦闘が始まるまで、旧ユーゴスラヴィ
アの大部分は、美しく穏やかなオリーヴ産地だった。イタリアに近いイストラ半島から、アドリア海に沿
ってザダル、スプリット、ドゥブロヴニクを経て隣のモンテネグロに至るまで、古いオリーヴ園が広がっ
ていた。しかしクロアチア南部、アドリア海沿岸のダルマツィア地方では、オリーヴもまた戦争の犠牲と
なった。堂々たる古木が見るも無惨な姿になり、大急ぎで避難する人々は車やバスの窓越しにちらりと目
をやるしかできなかった。多くの場合、人々はいずれかの軍隊によって土地を追われた。頻繁な路上封鎖
で、家を離れてふらりとどこかへ行くのも難しくなった。破壊を免れた採油所も、部品や人員が足りずに
閉鎖された。しばらく平穏な時期が続いても、退屈した狙撃者に狙われるおそれのあるところでは、だれ
もオリーヴを収穫したがらなかった。それでもまだ、遠い昔に植えられた、たわわに実の生る立派な木が、
無傷のままたくさん残っていた。とりわけすばらしいオリーヴ畑は、プーラに近いクルク島、スプリット
沖のフヴァル島といった島々にある。なかでも、黄金色のオイルを生み出すコルチュラ島のオリーヴ畑は
トップクラスであるとローゼンブラムは褒め称える。



コルチュラ島は地中海の名勝のひとつである。その美しさは控えめで、最初から圧倒的な力で追ってくる
ものではないが、車がカーブを曲がり、紺青の海のはるか上で白波のくだけるドラマティックな風景が見
えてくるにつれ、徐々にその魅力がわかってくる。色あせた赤い瓦屋根を敵く古い石造りの家が丘の斜面
に立ち並び、色鮮やかな花々が白い壁にこぼれ落ちている。〈ポド・ボーレ〉、すなわち「松の下」とい
う名の小さなレストランは、屋外に客席を設けた素朴な造りのだだっ広い店で、付属のかなり大きなバー
には、経済がすっかり駄目になった国ですることもない町の住民がやってくる。

 

オーナーの妻がアドリア海の太った新鮮なイセエビを持ってきた。オリーヴ油があふれるほどかかってい
たので、ジュージューいう火皿の底に残ったオイルにパンを浸してデザートにした。パンで皿を磨き終え
ると、二人ともお代わりを注文した。マルコ・ポーロが故郷ヴェネツィア領コルチュラ島の家を出て、中
国からパスタ(麺)を持ち帰るずっと前から、このすばらしいオイルは豊富に生産されていた。1928年、
ポーロは島を守るため、ヴェネツィアの艦隊に加わってジェノヴァと戦った。捕虜となって獄につながれ
たポーロとの長い会話を、ピサ
出身の同房者が書きとめ、あの不朽の旅行記「東方見聞録』ができあがっ
た。コルチュラ島にオリーヴを植えたのは、おそらくヴェネツィア人だろう。ヴェネツィアの経済力はオ
イル貿易によって支えられていた。しかし大プリニウスが詳細に語っているところによれば、最初に島に
植民したのはギリシア人だったという。

 

それ以降、ローゼンブラムは最後にクロアチアのオリーヴを味わったのは、クニン市を見おろす山中の村、
プラヴノの黒ずんだ廃墟の中でのことだったという。ユーゴ紛争で最大の犯罪者はセルビア人である。
1991年、砲撃によるヴコヴァルの徹底的な破壊から、1995年7月、スレブレニツァにおけるムスリム人の
大量虐殺まで、その罪は数えきれない。しかし、クロアチア人もまた似たようなことをしていた。ボスニ
ア国境と接するクロアチア領内につくられたセルビア人自治区、自称「クライナ・セルビア人共和国」を
クロアチア軍が制圧した際、兵士たちは放火、略奪、殺人と、暴虐の限りを尽くした。クロアチア軍の攻
撃は1995年8月初旬で、彼が現地に入ったのはその四か月後だった。プラヴノ村の住民千五百人をはじめ、
この地域のセルビア人は、ほぼ全員恐慌状態でボスニアヘ逃げ出していた。動けない高齢者や病人、もし
くはどうしても動きたくない者だけが残っていた。略奪者はほとんどの家に火を放った。セルビア正教の
教会だけが無傷で残された。クロアチア人はクライナ全域で「民族的寛容」の証として教会だけはそのま
まにしておいたというのだ。

 Skampi na Buzaru 

【スカンピ・ナ・ブザル】

このレシピは、アドリア海沿岸、スプリットのすぐ南に住むクロアチア人女性であれば生まれたときから

知っているらしい。クロアチアのスカンピは、イタリアのスカンピのような単なる小エビではなく、アド
リア海でとれる昧の良いヨーロッパアカザエビである。Fブザル」はソースの意味。以下の分量はおおまか
である。この地方では料理の際にめったに分量をはからないという。

材 料:スカンピ(大きなクルマエビでもよい)450グラム、オリーヴ油 適量、ニンニク(薄切り)2片
    パセリ(みじん切り) 大さじ2、塩、胡椒、辛口の白ワイン 1/4カップ

作り方:スカンピを洗い、オリーヴ油をまぶす。深めのフライパンに薄く油をひいてスカンピを入れ、色
    が変わるまで炒める。ニンニクとパセリを加え、塩、胡椒して、さらにゆっくりと炒める。大型
    のスカンピだと10分ほどかかることもあるが、それより小さなエビの場合はピンク色になればよ
    い。だいたい火が通ったら、ワインと少量の水を加え、煮立ったら火からおろす。この料理とい
    っしょに出てくるのはふつうパンのみである。手づかみで食べ、残ったソースをパンでぬぐう。
    ブリトヴァという野菜がつくこともある。ダルマツィアにしかない野菜だが、フダンソウに近い。





【地熱中採熱システムから学ぶ

 特開2011-080644
【符号の説明】

1 地中熱採熱システム 10 第1採熱ユニット 11 第1揚水井戸 12 第1採熱管 13、14
第1搬出管 15 第1水槽 20 第2採熱ユニット 21 第2揚水井戸 22 第2採熱管 23、24
第2搬出管 25 第2水槽 33 共通搬出管 Hm 熱媒体 S0 原地下水面 S1 第1低下水面
S2 第2低下水面 T1 第1枯渇領域 T2 第2枯渇領域

なんだかんだといっているうちに、夏休みも終わりに。いよいよ尻に火がついた。正直忙殺だ。忙しいと
は、心を亡くすことだよとは故人の大先輩に教わった言葉だが「環境発電」の構想(『蓄電ネットワーク
構築』)の下調べを開始? まずは「トンチンカン」な地中熱採熱システムから考察に入る。実システム
では富士通の長野工場で実証段階に入っている。このシステムはその他の省エネシステムから比べて、遙
かに減価償却期間が長いのが特徴だが、地下水量の変動がありそのリスク回避が企業技術となる?

基礎杭方式地中熱利用システムの 計画と設計方法について

 

 

と、いうことでなんだがプロ野球の予告先発の告知みたいになってしまったが、もしかして「素敵なタイ
ミング」を逃しているのかもしれないがここは“Going my way!”ということに。

                                            
 

コメント
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