戦時中、空襲を恐れて都会から田舎へ移転することを疎開と言った。
学童疎開といって学校単位の疎開もあったが、
わたしはまだ小学校入学前だったから母子4人で長野県へ疎開した。
父は仕事があるので、ひとり東京に残った。
広島に父方の祖母がいたので、そちらへ行くことも視野にあったらしいが、
嫁の立場の母がそれを嫌った。
長野には知り合いがいたわけではないが、父の職場の人の斡旋で決まった。
いわば、私たち家族が広島の原爆に遭わずにすんだのは、
嫁姑の不仲からということになる。
人生、どこに運命の岐路があるかは誰にもわからないものである。