疎開先は、島崎藤村が歌った千曲川に近い農家の離れだった。
座敷をぐるりと囲む土間は東京育ちの幼児にも目新しかったのだろうか、
これは覚えている。
寒さの厳しい地で、真冬に急須にお茶を入れたままで寝ると
朝、急須が割れていた……というのは、
記憶というより、母に聞いた話であろう。
夜になると、外便所のブリキの屋根に杏の実が落ちる音が聞こえた。
ブリキにあたるコツンという音に続いて、
勾配のある屋根から地面に滑り落ちる頼りない音も聞いた。
疎開……、というと、心細いようなあの音を真っ先に思い出す。