風子ばあさんのフーフーエッセイ集

ばあさんは先がないから忙しいのである。

不眠とするめ

2018-07-29 12:25:13 | 昭和つれづれ

               

 小学四年生だった。

これだけは鮮明に覚えている。夜になっても寝つけなかった。

これがわたしの不眠を意識したはじまりである。

襖越しの隣の部屋では両親と叔父の三人がまだ起きて話声がしている。

寝つけないわたしは、人間はなぜ死ぬのだろう、とこのときはじめて思った。

死んだら生きて戻ってこれないのだろうと思うとこわくてやるせなくて、涙が出てきた。

隣の部屋に親がいても、これだけは助けてくれないと分かっていたようだ。

ひとりで布団のなかで泣いていた。

気づいた親は、どうしたのか、とびっくりして、こっちへお出でと布団から誘いだしてくれた。

大人だけでこっそり食べていたするめを細く裂いて、食べるようにすすめてくれた。

するめは好物だったし、大人だけの時間に誘われたのだが、こんなものでは騙されないぞ、

とわたしは思っていつまでも泣いた。

変な子だね、と大人たちは笑ってするめを食べていた。

あれがわたしの不眠の第一夜、死を恐れたはじまり。

孤独を知った最初である。


厄介叔父とチーズ

2018-07-27 10:51:11 | 昭和つれづれ

                       

        父の姉である伯母と、弟である叔父がいる。

     戦後復員してきた叔父はしばらく我が家の居候になっていた。

    その居候先の我が家へ伯母が訪ねて来た。

    深刻な食糧難時代である、お茶一杯、芋一本が貴重品で、

     いつも誰もがお腹をすかせていた時代である。

    外地から引きあげてきた弟を案じた伯母が、

  どこで手にいれたものか、貴重なチーズ持参で会いにきた。

 母にこれを手渡すとき、「シュクに食べさせてちょうだい」と言ったので、

     母がカチンと来た。

たださえやりくりが大変で、我が子にさえひもじい思いをさせながらの叔父の居候である。

あなたも大変ね、少しだけど、みんなで分けて食べて頂戴……とでもいうのが、

母の期待した挨拶であったろう。

シュクに食べさせてと言われたのがよほど腹がたったらしい。

ずっと、根に持って、後々私たちが成人したあともなにかのときにはこれを聞かされた。

衣食足りて礼節を知るというが、いまどきの飽食の時代なら、

 なあんだ、チーズかあ、叔父さんチーズ好きなの、で済んだ話であろう。


居候

2018-07-26 09:26:41 | 昭和つれづれ

              

 父方の叔父は、戦前は台湾で商売をしていてその後上海にわたり、

そのまま終戦を上海で迎えたらしい。

上海では現地の女性との間に子まで生し、日本には戻りたくなくて

現地の人の歩き方を真似て居残ろうとしたと聞く。

しかし、おそらくばれて強制的に帰国させられたのだろう、着のみ、着のままで帰ってきた。

わたしたちがここの長屋に移っていることなど知る由もなく、父の職場である議事堂を訪ね、

わたしたちの住む現住所を教えてもらい、ようやくたどりついたのである。

食糧難の二間きりの家に転がり込まれて、母は大変だったと思う。

 


叔父さん

2018-07-23 12:28:07 | 昭和つれづれ

              

 父の弟のシュク叔父さんが復員してきた。

正確な年度は覚えていないが、わたしたちが小松川にいたのは、

終戦から昭和23年までだから、その3年のうちのいずれかの日のことである。

長屋には路地に向かって手すりのついた窓があった。

なんでわたしが手すりのところにいたのかは記憶にないが、

とにかくぼんやり外を見ていた。

向こうから父とそっくりのオジサンが歩いて来るのが見えた。

誰か来た! とわたしは、家の中にいる母にむかって叫んだ。

初対面でも、それが他人でないと咄嗟に了解出来た。

着ているものも、歩く姿も父でないのに父にそっくりな「誰か」が来た。

そうして誰かは、やっぱり我が家の玄関の前で足を止めた。

それからしばらく叔父さんは我が家の居候になった。


あら、今朝はピンク色!

2018-07-21 10:28:49 | 昭和つれづれ

    昨日純白な花を咲かせた朝顔が、今朝はこんなに淡くてきれいなピンク色。

      なんとなんと!

               

                   ついでに玄関の朝顔、こちら。

               今年ためしに棚を作らずに地に這わせてみました。

               これはこれで、一興、と悦にいってます

                


先生

2018-07-19 22:09:41 | 昭和つれづれ

                   

 小学校入学以来、高校卒業までいったい何人の先生方と出逢っただろう。

思い出に残る何人かの先生はいても、生涯最後まで付き合えたのは、

小学四年5年で受け持ちの野口先生だけである。

 付き合うと言っても、転校したあと、何度か先生のお宅まで遊びにいったり、

先生が我が家まで来て下さったことはあっても、わたしが中学生くらいまでのことで、

その後は年賀状だけのお付き合いになった。

 長くなると、賀詞のほかは、お元気で、というようなことだけが書かれたやりとりになったが、

それでも互いに何度かの引っ越しのときは転居先が分かり、わたしが結婚したら姓が代わり、

先生が定年になったら知らされ、会うことはなくても、懐かしい人であった。

 最後は、年末のある日、息子さんが差し出し人の封書の中に先生の手書きの葉書が入ったものが届いた。

 癌と分かったあと、

積極的な治療は受けずにいるので、まもなく皆さんとお別れすることになるでしょう、

葬儀も供花もいっさい頂くつもりはなく、ただこれまでのご交誼をときどき思いだしていただけたら

それがなにより。ありがとうございました。

 とあった。死亡日時だけはご本人でなく、息子さんの字で書き加えられていた。

 


鐘の鳴る丘

2018-07-17 14:31:27 | 昭和つれづれ

       

        ♪ 緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台

            鐘が鳴りますキンコンカン

            メイメイ子ヤギが鳴いてます ♪

 

 これはもう戦後育ちなら誰でも一度は口ずさんだ歌である。

 ラジオドラマの主題歌である。

その後映画になり、わたしが生まれて初めて観たのがこの映画である。

小学4年、5年の受け持ちだった野口先生という男の先生が、

クラスを引率して連れていってくれた。

希望参加だったから、おそらく先生の一存で決まった話と思う。

行けない子も半分以上いたと思う。

戦後は混乱の時代ではあったが、このあたりはかなりいいかげんで、大らかな時代であった。

今なら出来ない話だろう。

肝心の映画の内容はさすがにもう忘れているが、

友だちや先生と映画を観たという感動だけは今も忘れずにいる。


港が見える丘

2018-07-16 13:36:53 | 昭和つれづれ

           

 戦後の流行歌といえば、なんといっても「港が見える丘」である。

テレビもCDもない時代、もっぱらラジオが主役で、聞き覚えた。

わたしも歌った。歌うと親に怒られた。子どもは流行歌など歌ってはいけない! 

と言われた。しかしこの歌詞のどこが子どもが歌っていけなかったのか。

 

      あなたとふたりで来た丘は港が見える丘

      色褪せた桜ただひとつ寂しく咲いていた

       船の汽笛むせび泣けば

        チラリホラリと花びら

        あなたとわたしにふりかかる

         春の午後でした。

 

 べつにどうってことない歌詞と思うけど、

「あなたと二人で来た丘~~」と歌いはじめると、

「それは大人の歌です!」とやかましく怒鳴られた。

ひょっとしてうちの親だけだったのかしら。


子守り

2018-07-15 13:53:08 | 昭和つれづれ

         

 下の弟の子守りは長女のわたしの役だった。

背中におんぶしてケンケンパーなどして遊んだ。

一度、背中から飛び出した弟を地面に落してしまったことがある。

むろん泣いたが、本人はまだ口が利けないころだったから、親には黙っていた。

子ども心に、打ちどころが悪くてこの子がバカになったらどうしようと心配した。

幸い何ごともなく、長じては5人兄弟の中でいちばんデキがよかった。

落とされた本人もほかのきょうだいも誰も知らないことである。


きょうだい

2018-07-14 12:29:04 | 昭和つれづれ

            

 下の弟が生まれたのが昭和22年である。

私は広尾の日赤病院で生まれたと聞くし、ほかの弟妹もそれぞれ病院で生まれた。

下の弟だけが自宅出産である。

戦後間もない東京で病院で産むという選択肢はなかったのであろう。

自宅と言っても、同じ長屋の一軒隣のトミエチャンの家に産気づいた母が行き、

私たち子どもは自宅で待機させられた。

多分トミエチャンのオバサンが取り上げてくれたのだろう、

オシオさんといい、親しくしている家だった。

お産婆さんが来た様子はなかった。これで我が家は4人きょうだいになった。