風子ばあさんのフーフーエッセイ集

ばあさんは先がないから忙しいのである。

末妹の誕生

2018-08-30 11:06:10 | 昭和つれづれ

 入院して末っ子を産んだ母を独りで見舞ったことがある。

なにか必要なものを届けに行ったのかもしれない。

わたしは小学六年だったが広尾の日赤病院まで電車ででも行ったのだろうか。

覚えているのは、道中の心細かったことと、小雪の舞う寒い日だったことである。

夕方になった帰りを案じて、母がウールの襟巻をわたしの首に巻き付けてくれた。

長女というのは母にかまってもらう機会が少なかったので

暖かいショールを首に巻いてくれる母の手は嬉しかった。

ベージュ色のショールと、いつにない優しいその日の母のことは長く忘れえずにいる。

 末妹の誕生日は12月26日であった。

 


父の豆腐料理

2018-08-29 14:20:39 | 昭和つれづれ

 わたしが小学六年のときに末の妹のお産で母が入院した。

台所に馴れない父が、それでも一週間ほど食事を作ってくれた。

大根を豆腐と炒める料理は父の苦し紛れのものだったかどうか。

不器用な父が、子どもたちに、危ないからどけと言いながら鍋の蓋で油がはねないように用心しながら、

フライパンにジャッと音たかく大根と豆腐を抛り込み醤油を垂らすだけの料理は、

今も我が家の定番料理になっている。


貸し自転車屋

2018-08-28 16:40:12 | 昭和つれづれ

 戦後の物不足の時代、子どもたちは自転車など買ってもらえなかった。

それで貸自転車屋というのが流行り、一時間いくらかで自転車を借りてきた。

家の周囲は砂利道だが私有地なので、誰かとぶつかる心配はなくいくらでも転んだ。

一時間はあっという間に過ぎて、また明日というわけにはいかなかった。

なにしろきょうだいが多かったし、物価も高かった。

だから、借りた時間は文字通り寸暇を惜しんで転んでは乗り、転んでは乗り、

交代を待つ弟妹に急かされながら必死に乗った。

ちなみに貸本屋というのもこのころは流行った。

  ま、今のレンタル自転車、レンタルビデオかもしれないが、似て非なる事情である。


緊張

2018-08-27 21:51:56 | 昭和つれづれ

 学芸会の講堂に母が観に来ていた。

口ぱくで舞台上にいたわたしはおそらく緊張の糸が切れたのだろう、

舞台の上で派手にオシッコを漏らした。

そこから先、どうやって舞台をおりたか、パンツはどうしたのかの記憶はなく、

広いアスファルト道路を、4年生にもなって、とカンカンに怒る母にぐいぐい手を引かれて

歩いて帰った記憶だけは鮮明である。

 


学芸会

2018-08-26 10:31:22 | 昭和つれづれ

 なにもかもが遠くかすんで忘れているのに、ときどき思いだすことがある。

小学校の学芸会で、踊るグループと、歌うグループに分けられ、わたしは踊りに入れられた。

しかし、左利きのわたしは、みんなが右に回るときについ左に回る、右に走るときに左に走る。

で、はねられて、歌う組みに入れられた。

練習が十分でないので、口だけパクパクさせているように言われた。

哀しくも悔しくもなかったが、そうか、わたしには踊りは無理なんだ、

と運動音痴を自覚させられた始まりである。


スミレの思い出

2018-08-25 11:59:47 | 昭和つれづれ

 元北白川宮家の敷地は入口周辺は砂利が敷き詰められ、奥へいくとこんもりと樹が茂っていた。

さらにその奥が洋風の花畑のようになって広がっていた。

国庫管理になっていたころのことで、手入れのされていないそのひろびろとした敷地一面にスミレが咲き競っていた。

誰もいないその風景は子ども心に忘れがたいものだった。

絨毯を敷き詰めた、というような表現を読むたびにあの一面の紫の風景を思いだす。

戦後、まだなにもかもが不足している時代に、高い塀の中に、ごく限られた住人が見た景色だった。


半焼の宮家跡

2018-08-24 17:52:26 | 昭和つれづれ

 旧宮家の敷地は広大で、道を下っていくと長屋があり、

本来宮家に仕えるひとたちの住まいであったと思う。

 私たち一家が官舎として与えられたのは、車道に面して格子窓のある門番のための家だった。

トイレはあったが風呂はなかった。

敷地は広かったので、家の横にドラム缶がおかれ、手づくりのすのこを敷いて風呂にした。

いうところの五右衛門風呂である。コツがあり、上手に入らないと火傷をするので、難しかった。

弟が言うには、あのころまだ表屋敷には元宮様が住んでいた、ぼく見たよとのことだが、

わたしには覚えがない。

別館の洋館があったが、ここは爆撃を受けていて、煉瓦の外観は残っていたが、中は空洞であった。

しかし地下に潜ると紋章のある椅子やテーブルなどが乱暴に積まれてあり、

わたしたち冒険ごっこで遊んだ。

ただし、親に見つかるとひどく叱られた。

危ない、どれもこれも崩れてきそうで確かに危なかった。立ち入り禁止のロープが張ってあった。

 


宮邸跡

2018-08-24 04:22:01 | 昭和つれづれ

 昭和22年に戦前の宮家のうち11宮家が皇籍離脱をした。

皇室財産の一部が国庫に帰属したのである。

その旧宮家の焼け跡が、わたしたちの引っ越し先になった。

つまりしばらく役所が管理していたので焼け残った一部が官舎になった時期がある。

広大な敷地であった。表門を入ると玉砂利が敷き詰められ、

表屋敷は焼けのこっていたが近づくことは禁じられていた。

別の入り口に門番の家があり、門番の家だから道路に沿った変形の間取りで、

そこに二年ほどわたしたちは住んだ。

今思えば、めったに経験することの出来ないところに住んだことになる。

                


転校

2018-08-18 22:03:37 | 昭和つれづれ

 終戦直後から3年間を過ごした東小松川から、官舎の都合がついて港区高輪に引っ越したのが小学五年生のときである。

転校先は高輪台小学校で、まだ校舎には爆撃よけのための迷彩が施されていたと記憶する。

前の小学校では、女子が男子生徒を呼ぶときはクンづけで呼んだ。

田中クン、とか渡辺クン、というのがふつうだった。

自分のことをアタイというのもふつうであった。

配給衣料の子ども用のシミーズを、みんなお揃いのように学校へ着て通った。

うちの母は、アタイと呼ぶのを禁じ、シミーズ通学も禁じた。

学校にはオルガンもピアノもなかったので、音楽の時間はひたすら歌を唄った。

転校したら、ピアノがあり、音楽の時間はみんなが音符を読めるので、びっくりした。

むろんシミーズで学校へ来る子など一人もいなかった。

男子生徒のことは、クンではなくサンづけで呼んだ。

田中さん、渡辺さんという具合でちょっとしたカルチャーショックだった。

 だからと言って意地悪されたりいじめに遭うというようなことは一切なかった。

            


菊子ちゃん

2018-08-02 10:27:39 | 昭和つれづれ

             

 振り返れば、80年生きてきた間には多くの友人と出逢ったが、

 はじめての親友は同潤会に住む菊子ちゃんである。

小学二年生から四年生で転校するまで同じクラスで、登下校時も一緒、学校から帰っても一緒に遊んだ。

わたしは五年生で港区高輪に引っ越したが、その後ひとりで電車に乗って遊びに行ったし

菊子ちゃんが遊びに来たこともある。短い間だが頻繁に葉書や手紙のやり取りもした。

しかし、哀しいことに、菊子ちゃんは六年生で突然病死した。

あのころ同潤会の事務所を兼ねていたのか、

菊子ちゃんの家には普通の家にはない電話があったが、うちにはなかった。

知らせは、葬式がすんでから菊子ちゃんのお母さんからの葉書で知った。

母に買ってもらった花束を持って、電車に乗りひとりで同潤会の菊子ちゃんの家まで行った。

おばさんと話しているとき電話が鳴って、おばさんが立っていった。

入口近くの壁に縦に据え付けられた黒い電話機、私が初めて見た電話機だった。

帰りにおばさんから菊子ちゃんが使っていた何かをくれたような気がするが、

それが何だったかはもう忘れた。遠い遠い日である。