風子ばあさんのフーフーエッセイ集

ばあさんは先がないから忙しいのである。

曽野綾子さん、夏樹静子さん

2011-11-13 10:07:07 | 読書
     もう20年以上むかしになるが、
    曽野綾子さんの「贈られた目の記録」を読んだ。
    作家というのはすごいもんだなとつくづく感心した覚えがある。

     視力に不安を覚え、白内障と診断を受けて、病院を探し、手術を受けた……
    いうなればそれだけのことを書いた長いものだが、一気に読んだ。

     プロだから当たり前と言ってしまえばそれまでだが、
    退屈せずに読ませる力にほとほと感じいったものであった。

     その後、同じように思ったのが、夏樹静子さんの「椅子がこわい」である。
    これも、腰痛で悩み、何ヵ所もの病院をめぐりあるき、
    ようやく心因性のものとわかって治癒したことがえんえんと書いてあるのだが、
    退屈するどころか、ぐんぐん引き込まれて読まされた。
    腰が痛い痛い痛い……と書いて、これだけ読者を引き込んでいくのだから、
    プロとはすごいもんだなと唸った。

     長年腰痛に悩む風子ばあさんは、どんなに逆立ちしてもああは書けない。
    せいぜい特製の座布団を作って、どこへでも持ち歩くのが関の山である。

     昨日も友人と会うのに、いつものように座布団を持参した。
    居酒屋の椅子に置いて座り、楽しく呑んだはいいが、立つ時に忘れた。
    帰宅してから気づいた。
    居酒屋のお兄ちゃんかお姉ちゃんは、妙な忘れものにきっと驚いているに違いない。
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サラエボのチェリスト

2011-09-23 11:44:23 | 読書
     アルビノーニのアダージオという曲は哀切で美しい。
    何度聴いても、胸を締め付けられるように物悲しく高潔である。


     スティヴィン・ギャロウェイ著「サラエボのチェリスト」は、
    ボスニア内戦でのサラエボ包囲を題材とした小説である。

     実話としてのモデルはあるが、ここではあくまで小説として書かれている。

     市場でパンを買おうとしていた市民22名が迫撃砲で殺された。
    次の日から、ひとりのチェリストが、
    その場所で「アルビノーニのアダージオ」を弾き始める。

     山裾に小川の流れる落ち着いた街だったサラエボは、
    今やいつ迫撃砲弾が飛んでくるかわからない危険な場所だ。
    人々は水汲みにさえ、命がけで家を出る。

     その危険極まる場所で、死者の数の22日間、
    チェリストは鎮魂のためのアルビノーニのアダージオを弾き続けた。

     女性の狙撃手アローは、
    廃ビルの窓からチェリストを守るべくライフルを構えて監視するが、
    丘の上の兵士たちもまた、チェリストが演奏を始める時間になると
    砲弾を打つのをやめにする。

     そして、ついに22日目が来た……。

     読み終わるまで、アルビノーニのアダージオが静かに切々と聴こえてくる
     ……そんな小説である。
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吉村昭著 関東大震災

2011-09-16 10:56:09 | 読書
   亡くなった私の母は、大正生まれの東京育ちである。
  まだ子供だったとはいえ関東大震災の体験者である。

   当然、私も、地震にまつわる話は聞いて育ったはずだが、意外に記憶がない。

   昭和48年に刊行された吉村昭著 「関東大震災」を読んだ。

   関東育ちの私でさえ、20万人が死亡したというあの大地震について
  何も知らなかったのだと改めて思った。

   安全と信じて避難した被服廠跡では3万8千名の焼死者が出ている。
  ほかでも至るところで焼死者が多数である。
  倒壊による死者より断然焼死者が多い。

   安政の大地震と大正の地震は同規模だそうである。
  消火能力においては、安政より近代がはるかに優れていたと思うのが普通だが、
  水道管の破裂でその能力が発揮できなかったということである。

   時代はさらに進んだ現代、過密人口などを思うと空恐ろしい。
  これもよく知られたことだが、災害時の流言の恐ろしさにも本著は触れてある。

   警察は暴徒化した群衆を制圧することが出来ず、
  署内まで暴徒がなだれこんだという。

   ふだんは糞尿汲み取りを業としていた作業員が、
  死体の処理に雇われ、東京中の便槽から糞尿があふれて伝染病が蔓延したことなども
  正確に数字を表示して記録され、なまなましい。
 
   過去の事としてではなく、
  今に生きる私たちが学ばねばならないことの多くが語られている書である。
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吉村昭著 三陸海岸大津波

2011-09-14 11:39:18 | 読書
  吉村昭著「三陸海岸大津波」は、昭和45年に「海の壁」として上梓され、
 平成16年に「三陸海岸大津波」と改題されて文庫になった。
 今年の震災後再び文庫化されて広く知られた。

  明治29年、昭和8年、昭和35年、
 いずれも三陸海岸を襲った大津波の記録である。

  明治29年の津波については、吉村昭氏本人が、昭和45年当時、
 まだ存命中だった津波から辛くも逃れた二人の体験者からの聞きとりをしている。

  昭和8年の津波については当時の小学生の作文が引用されている。
 いずれも今と違って映像のない時代である。
 記録の重みは現代の比ではなかろうと思う。

  巻末の解説で、高山文彦氏は著している。
 「明治の大津波についで、なぜ昭和の大津波でも大きな犠牲を払わなければならなかったのか。
 これは悔いても悔いきれない、痛ましい事実である」
  この「昭和の大津波」というのは、昭和八年の津波のことである。

  時代は進んだが、津波により原発というさらなる事故が加わったことを思うとき、
 人間はこれまでいったい何を学んできたのだろうかとの思いを深くし、
 まさに悔いても悔いきれないのである。
 
  まずは知ることからの思いで読み終えた。
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ヤノマミ

2011-09-11 10:57:52 | 読書
   NHK出版の、国分拓著「ヤノマミ」は、
  大宅賞受賞ほか「本の雑誌」のベストテン入りもしているルポルタージュである。


   かつて、南米には数千万人いたとされる先住民族が
  近年はたったの1パーセント以下にまで減ってしまったそうである。

   NHKの取材グループが、
  絶滅からの保護居住区にあるヤノマミ族と同居した際の
  ディレクターである著者が書きあげたのがこの本である。

   二年ほど前だろうか、たまたまこのルポの番組は見ていた。
  映像は衝撃的だったが、文字にされることでより内面に肉薄した感動を得た。
  とかくドキュメンタリーな作品は、事実の重みに寄りかかりすぎるものだが、
  この著者の鍛え抜かれた文章と、一語ずつへの思いは、
  文字が映像をはるかに超えることをも伝えてくれた。

   人間とは何か。文明とは何か。
  心身の壊れるまでに考え抜いたという作者の渾身の著書が、
  一人でも多くの読者の手にとられますように。
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速記者たちの国会秘録

2011-08-13 15:36:59 | 読書
  テレビで国会中継を見ると、議長席のすぐ下で記録をしている人たちがいる。
 彼らは人が話す速度で、一言一句を即座に正確に記録する速記者たちである。

  いわば議会の黒子役だが、
 日本の議会政治が始まった明治23年からずっと会議録を作り続けてきた人たちである。

  その彼らの目から見た戦後の議会史とでもいえる
 「速記者たちの国会秘録」新潮新書、菊地正憲著を読んだ。
 大物政治家たちの知られざる一面や、議事堂内の裏面史として面白かった。

  国会の速記者になるためには、
 衆参議院の速記者養成所を経てさらに採用試験があり、中々の難関と聞いていた。
 しかし、その養成所も平成17年で生徒募集を打ち切られたそうである。

  音声同時翻訳のパソコンなどもある時代だから、やむを得ない流れではある。

  超人的な早技で書きとり、それを反訳する仕事に注目し、
 彼らの知識と教養を高く評価してこの本を著わして下さった菊池正憲さんには深く感謝と敬意を表したい。

  なぜなら、風子ばあさんの亡父も、戦前戦後、激動の時代を衆議院の速記者として生きた一人だからである。

  父をしのび、なおかつ時代の趨勢を思う一冊であった。
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アマチュア作家

2011-05-17 15:56:12 | 読書
 アマチュア作家という言葉が正しいかどうかわからない。
日曜作家とか同人誌作家とか、つまりは、作品に原稿料が支払われないでも、書きたいから書いている人達がいる。

 この手の人たちはかなりの人数いるが、作品はまさに玉石混淆である。

 あるグループに、入会したばかりの新人が、
「ここは、玉石混淆と言われて来ましたが」と口走り、
「え? 誰が、玉? 誰が石なの……」
居合わせた面々が顔を見合わせたという笑い話がある。
しかし、玉石混淆は 事実である。

 掘り出し物には、プロをしのぐ作品が珍しくない。

 アマチュア作家かどうかはわからないが、
おすすめのひとりに難波田節子さんがいる。

 知る人ぞ知るから、無名とは言えないが、よほどの小説好きでないと書店で探しても読めない。

 文学界昨年11月号に彼女の「雨のオクターブサンデー」がある。

 風子ばあさんは、別に知り合いでも何でもない、
ただの愛読者だが、こういう作品がもっと多くの読者の目にふれてほしいと願う。

「雨のオクターブ」が文学界に掲載されたときは、
風子ばあさんは頼まれもしないのに、これを五冊も買って、友だちの誰彼に読ませた。

 図書館で読める。
鳥影社刊行の「晩秋の客」もある。
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プロ作家

2011-05-16 21:51:18 | 読書

 芥川賞作家の小説を、2作続けて読んだ。
近年の芥川賞作品は、素人の読者を寄せ付けない難しい小説が多いが、
私が読んだこの女流作家は、身近なテーマをテンポ良く仕上げていて読みやすい。
好きな作家のひとりに数えていた。

 ところが、最近書かれたこの2作は、評判のわりに、どちらも、たいしたことはなかった。

 素人のばあさんが、生意気なことを言っても失礼にあたるので、著者、著書名は省く。

 概して、作家は初期の作品が面白いが、この作家も、はじめはこんなつまらんものは書かなかったよね、と思う。

 思うに、売れるまでの作家は、呻吟しつつ魂をよじるようにして作品を書く。
売れるあてもないのだから、時間もテーマも制約を受けない。
書きたい衝動は読む方の心にふれる。

 売れるようになると、忙しい。
呻吟している暇もない。
出版社からは、先生、まだでしょうか、お早くお願いします……
(などと言われるかどうかわからないが)
いずれにしても、著名作家だから、何を書いてもそこそこ売れる。

 そのせいかどうか、売れっ子作家になると、
どうも、書き飛ばしているような気がして仕方がない。

本を手にした時の、こちらの期待が大きすぎるせいかもしれない。
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合評会

2011-03-08 22:20:54 | 読書
 小説を書く仲間どうしで、合評会なるものがある。
仲間のほとんどはパソコンで入力して、必要な部数を刷り出す。
あるいは添付して相手に届ける。

 若いひとには当たり前のことが、年寄りの風子ばあさんはこの事ひとつで感極まる。

 とにもかくにも、自分の書いたものが、印字されて目の前に出てくると、なにやら立派に見えるのである。

 昔はこうでなかった。
原稿用紙に下手な字でこそこそ書いて、間違えると棒線引いて脇に書きたした。
修正ペンというようなシロモノさえなかったような気がする。
もちろん打てば変換してくれるわけではないから、いちいち辞書をひく。

 さて、原稿が出来あがってもコピー機などもない。
どうしたか? 会合の前に郵送で回覧をすませておくという方法があった。
しかし、これは人数が多いと日数がかかりすぎた。一部しかない生原稿が行方不明になる危険性もある。

 で、どうするか? 当日、みんなの前で読みあげるのである。
さすがに当人は読みにくいので、うちらの場合は、読み達者な人間が声を張り上げて読んでくれた。
それをみんな黙ってうつむいて拝聴をしてから、合評という段取りになった。

「頬を寄せてきた彼の手が腰のあたりを滑り……」などというくだりを、一同しかつめらしい顔で、
しんと聞き入っている図は、今考えると、懐かしくもおかしい。
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弓 透子さん

2011-03-04 11:55:14 | 読書
 弓透子、平成9年に芥川賞候補になった作家である。
 まだ彼女が芥川賞候補になる以前、いわば無名のころ、たまたま「ハドソン河の夕日」という彼女の作品
を目にした。

 風子ばあさんはこれを読んで、いたく感動した。
小説としての面白さを十分堪能させてくれた。抑制のきいた美しい作品であった。
世間で評判になる前に読んだ興奮を伝えたくて、友人知人の誰彼にこの雑誌を回して読んでもらった。

 そのあと、芥川賞候補になったので、風子ばあさんは、多いに鼻を高くした。
受賞にはいたらず、惜しかったなあ、とあのときは、我がことのように残念でならなかった。

 しばらく忘れていたが、昨日、近くのブックオフで「ハドソン河の夕日」の単行本を見つけた。

 芥川賞候補になった直後に出版されたものである。定価は2500円だった。
ブックオフでは1500円の値がついていた。
100円、200円というような極端な安値になっていなかったので、嬉しかった。
関西の方の作家らしいが、この九州でも彼女の小説が好きで読んだ人がいるんだよね、と懐かしかった。

 ネパールの婚礼、ロックフェラーの館、ハドソン河の夕日の三作が収録されている。
ハドソン河は、あのとき何度も読んだはずなのに、また一気に読みとおした。

 作家と読者という関係は面白い。
いわば見ず知らずながら、読んでいるこちらは親しい。
弓さんは、こういう読者がいるのを知らないだろうと思うと、それもまた勝手に愉快なのである。
 

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