家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

友里征耶氏の指摘

2006年03月23日 | 家について思ったことなど
 かなり辛口な料理(店)評論をする友里征耶さんという方がいる。
私はその友里氏の連載コラム「行っていい店、悪い店」を愛読している。
有名料理店をばっさりと切り捨てるその論説は、ちょうちん記事ばかりの甘々なグルメ評論の中では異色で、面白い。
貧乏性の私は、友里氏が取り上げるような高級店に足を踏み入れたことはほとんどないのだが、「ああ行かなくて良かった」と、これまた貧乏性丸出しの満足感を得ているという不埒な読者である。そんなズレた動機で読んでいるとしても、「フードライター」「フードジャーナリスト」の多くはいいかげんであることをこの連載コラムはたっぷり教えてくれるので、人にオススメするに値すると思っている。

さて、その連載の930回で気になる部分がある。
メインテーマの「料理」のことではなく「建築」に関する記述のこと。

(以下、引用)*************************************************
以前のコラムで、有名建築家の作品は自身の名声をより高めるため、
居住者にとっては使い勝手の悪い、
奇を衒ったパフォーマンスだけのデザインの
建屋になってしまうものが多いと書きました。
この主張に対するご意見、ご批判をまったくいただいていないので、
この主張は私がわざわざ述べるまでもなく、
広く世に知れ渡った「定説」であると確信した次第です。
***********************************************(引用、ここまで)

料理評論のコラムで建築に関する意見に反論がこないから「定説」と確信されるのはいささか乱暴な結論と思わざるをえないのだが、おおまかに世間一般のイメージがそんな感じではあることは強く否定できない。

ただ、危惧することはある。
ここで「有名建築家」をどのような定義で使っているのかよくわからないのだが、「建築家」全般がそのようにとらえられかねないということだ。
なぜなら「有名料理人と料理人」の関係との対比として「有名建築家と建築家」の関係を思い浮かべる読者はあまりいないと考えられるからだ。おそらく多くの読者は「建築家」はすべて「有名建築家」と考えて、「建築家と建築家以外(ハウスメーカー・工務店)」の関係を思い浮かべるのではないだろうか。
そうして、「建築家」の建てる家は「居住者にとって使い勝手の悪い・・・」というような連想へとつながっていくように思う。それが「定説」になってしまう(なってしまっている)のは悲しい。
(ひとまず友里氏には「建てずに死ねるか!建築家住宅」(大島健二著)を紹介しておきたいところ)

おいしい料理を提供したいという料理人が多いように、住みやすい家を設計したいと考えている建築家だって多いのに、このような誤解が放置されたままになっているような気がしてならない。
どうやら、芸術家的でない建築家はあまり自分から「建築家です」って言わないようだから、こうした誤解はなかなか解けそうにもない。
そんなことを考えていると「建築家」という言葉をどう使うべきなのかがますますわからなくなってくるのだった。



話を変えて別の視点から--。
「異端」な料理評論をする友里氏のように、建築評論にも異端児が現れないだろうか。
「建築」的な視点からの評論ではなく、使い勝手を基準とした評論。気持ちよくブッタ斬りした文章を野次馬的に読みたい。
料理界の人間でない友里氏が言いたい放題なように、建築業界外の人間がいい。

・・・と、ここまで書いて、やっぱり難しい要望であることに気づく。
グルメ(食通)は一般人もなれるというか、そもそも料理人でない人がなるもの。しかし、建築ツウの大半は建築業界かその周辺の人間がなるように思うし、建築に興味を持つ人間はやっぱり建築的な視点で物事を見てしまうだろうからだ。

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3 コメント

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やってみたいような・・・ (asazuma)
2006-03-24 06:04:36
どうも!朝妻です。



>気持ちよくブッタ斬り



やってみたい気もしますが、難しそうですね。



料理以上にその人の主観に左右されるものの気がします。建築は・・・。
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価値観それぞれ (martiniflats)
2006-03-24 15:43:45
友里氏のプログ、以前に何度か覗いたことがありました。

氏のおっしゃっていることはもっともですが、食も建築も私は結局はその人それぞれの好み、価値観(生活のバックグランドを含めて)ではないのか?と思いますが…。有名無名、建築家、料理人に関わらず、私の生活にはこれが好き、と思った人が正解、なのではないでしょうか?ミースのファーンズファースの家も安藤のコンクリートの家も、普通の人にはそりゃ住みにくいでしょう。でも家と生活をアートとしてそれに惚れ込める人には値千金、その中で感激に浸って生活できるんです。(ようは慣れです)



海外在住の私に東京の高価な寿司屋の違いはわかりませんが、いつか食べる機会が訪れれば自分なりに好き嫌いくらいはいえるようになりたいです。評論家とかジャーナリストの方の意見/提案で視野が広がるのはいいのですが、こういう人たちが勝手に有名建築家=アート=作品=住みにくい=定説、と言い切ると、市井の人にはよけいな先入観ばかりが広がるのではないでしょうか。(料理も然りです)



専門家でなくても、普通の人にもそれぞれの生活、好み、価値観(資産力)があります。(日本では周りの動向に左右されやすいこともありますが)

日本では衣食住の”住”にこれから頑張ってもらいたいですね。

アメリカでは”食”、お願いしますよ。(涙)

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リテラシー (garaika)
2006-03-24 22:10:04
>朝妻さん

>martiniflatsさん



「主観は人それぞれである」、このことを意識しておくことは情報リテラシーにおいて重要です。

それを意識して人の文章を読むからこそ、異論や極論が面白く思えるということもあるわけです。

私は思いがけない切り口を見せられたりすると、感心もしますが、それは信じるということとイコールではありません。



まあ今回のエントリには、一般人が陥りやすい連想を防ごうという思惑もちょっぴりあったりするわけです。

安易に人のいうことを鵜呑みにする人が結構多いなあと私は思っておりまして・・・。



実体験したときの判断こそ当人にとって重要なのですが、料理に関していえば、

私は、氏が批評するようなクラスの高級料理店にそもそも行こうとはめったに思わないタチで、

そうはいっても、どこかでとんでもなくうまいような表現がされていると気になるような食い意地がはっている人間で、

本能(食欲)と理性(懐具合)の戦いで理性を勝利させようとして、友里氏のコラムを利用しているという面があるような・・・。

これも情報のうまい使い方というリテラシーのつもりです。



「味」の話をさておいて(あえてエントリで「味」表現にふれていないことがわかりますでしょうか)、友里氏がそこかしこで示唆する、「フードジャーナリスト」という人達にだまされるな、という啓蒙は結構納得して読んでおります。



で、結局いいたいことは、「リテラシーをしっかり持ちましょうね」ということなのでした。





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