1941年12月8日付『朝日新聞』夕刊。
今日、12月8日は、太平洋戦争開戦から75年に当たる。
敗戦の8月15日(天皇放送の日)以上に、日本の歴史を大きく変える事件なのだが、報道も薄く、ことさらイベントもないせいだろうか、知らない人が多い。
この日から日本国民は、歴史上類いない悲惨な道を歩むことになる。
既にこの年から、小学校は「国民学校」となり小学生は「少国民」と呼ばれるようになっていた。つまり相当前から戦争への態勢が進められ、年齢を問わず国家に奉仕することを強要する準備が整えられていたのである。
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。 大本営陸海軍部。12月8日午前6時発表、帝国陸官軍は、本8日未明、西太平洋において、アメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり。」
75年前のこの日の朝突然、臨時ニュースが流れて日米開戦が伝えられた。後に嘘つきの代名詞とされる「大本営発表」第1回目(以降、戦闘行動が続いていた1945年8月14日まで、840回)である。
そして、午前11時には戦果の発表がなされる。
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。
帝国海軍は、ハワイ方面のアメリカ艦隊並びに航空兵力に対し決死の大空襲を敢行し、シンガポールその他をも大爆撃しました。
大本営海軍部、今日午後一時発表
1、帝国海軍は本8日未明、ハワイ方面の米國艦隊並に航空兵力に対し決死的大空襲を敢行せり。
2、帝国海軍は本8日未明、上海においてイギリス砲艦ぺトレル号を撃沈せり、アメリカ砲艦ウェーク号は同時刻我に降伏せり。
3、帝国海軍は本8日未明、シンガポールを爆撃して大なる戦果をおさめたり。
4、帝国海軍は本8日早朝、ダヴァオ、ウエーク、グアムの敵軍事施設を爆撃せり 。」
〈大本営海軍部12月8日午前11時10分発表〉
真珠湾攻撃が「奇襲」であったかどうかという議論はおいといて、この日の大本営発表はまだ真実であった。しかしこの後の日本は、山本五十六の予言通り、半年後の1942年6月にミッドウェイで大敗を帰するまでは快進撃を続け、日本中が提灯行列でうかれていた。
その、ミッドウェイ海戦を伝える大本営発表はこうだ。
「(前略) 一方同五日洋心の敵根拠地ミツドウェーにたいし猛烈なる強襲を敢行するとともに同方面に増援中の米国艦隊を捕捉、猛攻を加へ敵海上および航空兵力ならびに重要軍事施設に甚大なる損害を与へたり、(中略)
現在までに判明せる戦果左の如し
1、ミツドウエー方面
(イ)米航空母艦エンタープライズ型一隻およびホーネツト型一隻撃沈
(ロ)彼我上空に於て撃墜せる飛行機約百二十機
(ハ)重要軍事施設爆砕
(中略)
2、本作戦におけるわが方損害
(イ)航空母艦一隻喪失、同一隻大破、巡洋艦一隻大破
(ロ)未帰還飛行機三十五機」(以上抜粋)
しかし実際には、わずか数分で空母3隻が被弾炎上し、艦上戦闘機は飛び立つまもなく大半を失い、ろくな抵抗ができないまま連合艦隊は壊滅した。
これ以降、南方での日本軍は敗退を続け、敗戦への道を辿ることになるのだが、大本営発表は相変わらず「勝った勝った」と国民を煽り続けた。
日本軍の損害は軽微に、英米軍の損害は過剰なまでに誇大な表現で伝えた。
有名なエピソードで、大本営発表を聞いた天皇が「サラトガが沈んだのは、今度で確か4度目だったと思うが」と皮肉ったことが伝えられている。
やがて本土空襲が続くようになると国民の間から大本営発表に対し「勝っているのにどうして何度も空襲があるんだ」と疑うようになってくる。
そして現在、政府はNHKのみならず、民放までも圧力で報道をコントロールするようになった。政府による情報操作が始まれば、それは国民の悲劇の始まりを意味する。
「大本営発表」が過去の出来事と一概に勝たず蹴られない風潮にあることを知っておこう。