『いつも、いつでも元気炸裂!』

どんな環境やどんな状況でも、どんな人とでも明るく元気な笑顔で交流するよう心がければ自他ともに更に元気な心が増幅します。

言葉で思い出す人、形(物や写真)を見て思い出す人・・・

2021-06-13 12:30:31 | 喜怒哀楽をポジティブに
今朝、明け方に母親の夢を見た。
和服に懐かしい白の割烹着を来た母は大きな風呂敷包みを持ち、
声にならないような小さな声だったが私にははっきりとわかる
あの声で車で送ってくれるよう話しかけてきたのだ。

隣の助手席に乗った母は風呂敷包みを自分の膝の上に載せその結び目を
ゆっくりと解いて、あらためて中を確認するようにしてから私の方を見た。
信号で止ったときに母の荷物に目を遣ると鮮やかな模様の「へら台」や
つかい古したような、それでいてしっかりとした「くけ台」が・・・

この時(夢の中だが)私ははっきりと「へら台」と「くけ台」の
名前とその用途を思い出し、母は今日も若い女性たちに着物の縫い方を
教えに行くのか?・・・と思ったのだ。

私のブログにお立ち寄りいただく方々の中には私の子供達位の方も
いらっしゃるが多くは私とあまり年齢に差が無い同世代のかたが多いようだ。
きっとこの「へら台」「くけ台」でその形やそれを使う母親達の姿を
思い出される方も多いのかもしれない。
「へら台」「くけ台」という言葉ですぐに思い出せなくても実物や
写真を見ると一気に記憶が子供の頃へ・・・となる方々も・・・
早朝の夢は私にとって本当に懐かしいものであった。

「へら台」(ネットより借用)
        

    
「くけ台」  (ネットより借用)      
   
私達が子供の頃、5人の子供を育てる母は教員としての父の給料を
少し補足するためにボランティアを兼ねて近くの若い女性達に
和服のこと、その縫い方などを時々教えていたのである。
実際には授業料のようにしてお金をいただくケースはほとんどなく、
大概は、米、野菜、干物などの食料品を時折いただいていたことを
思い出した。

そのミニ和裁教室は我が家で行い、出かけることなど全くなかったのだが
今朝の夢では出かけるような場面であった。
それはどうしてなのか?・・・もちろん夢の中のことなので考えても
わからない。
狭い車の中で母と少しでも一緒にいたい、そして話したいと思っていたの
かもしれない。

母の道具である「へら台」は時々、私と弟の遊び道具でもあった。
生徒さん達のための幾つもの「へら台」を開いて屏風のように立て、
つづら折りのようにして作った通路を行ったり来たり・・・

『神聖なる道具を遊びに使うとは不謹慎な・・・』などと叱らなかった
母のことを考え、私達も倒して傷つけたり汚したりしないよう
子供ながらに充分注意しながら遊んだ日からもう既に70年以上も
経っているのにまだ数日しか経っていないような気がする。

母が生きていれば今年110歳になる。
私が予定どおり125歳まで生きる頃には思い出の母は156歳か・・・
まだまだ沢山の思い出を懐かしむことができる・・・。






















コメント (6)
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