ふくちゃんの絵日記

バイク等での旅行記や、日常生活で感じたことを、絵(写真)に描けるものは描き(添付)絵日記風にしたいと思います。

☆間もなくあの日・・・

2014年03月10日 | 日記
 今月(3月)11日で「東日本大震災」から三年となる。
 私は、この貴重な体験(視聴覚)で「津波」という途方も無い”化け物”を見て、情け容赦のないその正体(の一部)を知った。
 私の家は、海岸から約百メートルの位置にある。
 あの日(三年前の3月11日)以降、津波の恐ろしさを感じている。
 市役所を訪ね、避難場所や避難路の確認をしてきた。
 市が指定する「避難所」は県立高校である。
 私の家から約500mの位置にある。
 加えて、避難経路には、溜池を水源とする川幅約30mの河川がある。
 この河川も、海水の逆流を阻止する「水門」が設備されている。
 避難所への頼りとする渡河方法としては、旧国道の橋と隣接する私鉄の鉄橋である。
 そして、市が開示した「溜池ハザード・マップ」によると、溜池が崩壊すると我家の周辺では、50cmの水位となると予測されている。
 周辺における過去の(災害による)被害状況では、私がこの地に住み始める、2年程前に、台風によって防潮堤が倒壊し、床上・床下浸水被害(一週間ほど水が引かなかった)があった。
 従って、最悪、避難所への渡河が出来なくなる可能性があると考えるのである。
 最悪とは、地震によって、溜池が崩壊し、津波が押し寄せると言う想定である。
 加えて「放課後や休校時の入門は可能か?」と言う疑問に、市役所の災害対策を担当する責任者(課長)は「いち早く担当者が駆け付け、対応します」と言う回答では、経験(3,11)から不安感が増す結果となっている。
 確かに、高台に避難を要しない”避難”なら、担当者が到着してから行動すれば良いので問題は無い。
 私の”頭”は、我家の立地から、一途に高台への避難を要する津波への対処である。
 私が生活する行政区では「津波への心配は必要ないのかも知れない」と思ってしまう。
 最近、配布された「市・広報」で「災害ボランティア研修会」が3月8日に開催される事を知った。
 そして、参加した。
 午前中、パネリスト(4人)による東日本大震災での支援活動報告であったり、備蓄や災害後の対処策であった。
 この中で「自主防災組織」が行政区の中で、一つだけあることも知った。
 その組織の活動報告もあった。
 午後から地元の大学で教鞭(社会学)をとる”先生”の講演があった。
 この講演で、私が知りたいと思う”知識”の一部が満たされた。
 それは、予想される地震が発生した場合、私の在住する行政区で一箇所だけ「震度7」が予想されており、その箇所以外は「震度6強」であること。
 そして、地震発生から一時間後に、1mの津波が押し寄せること。
 その後、三時間後には、4.3mの津波が押し寄せる。
 と言う予測内容を知った。
 このなかで、講演者は「この数値は、予想であること。3.11の教訓は”経験の無かった”(予測外の)規模」であったと言う事を力説していた。
 地震で家が崩壊しなかったとして、逃げ遅れた場合、干潮時に津波が来るとすると、二階への避難で間に合うのではないかと考える。
 しかし、木造家屋が浮いて流される実像(3.11の)を見るにつけ、やってはいけない事と考えなければならない。
 加えて、満潮であるか・干潮である否かの判断は無理と考える。
 防災行政放送では、干満に触れず「4mの津波が来ます!」としか放送されないだろうから、我が身(命)を守るためには、何はともあれ(干潮時であっても)”逃げる”ことしかない。
 我が自動車は、寝泊りが出来る様に改造してあるので、非常食等を搭載しておいて自動車で逃げれば良いとも考える。
 しかし、阪神・淡路大震災で教えられた道路状況から”無理”であることを理解しなければならないだろう。
 今、考えられる形態として、行政が指定する避難所に非難し、十数Km離れた他行政区の、子供達の生活が正常に機能しているとすれば、自転車で支援を求めに行く事になるであろうと思う。
 なお、増水や橋梁の倒壊で渡河出来ないと判断した場合には、前記の過去における床上浸水被害対策で、建て替えられた市営住宅(四階建アパート化)に一時避難することも考えなければならないと思う。
 その為にも、お互い(私と子供達)の安否を確認し合う手段を確認しておくこと。
 そして、両大災害で活躍したと言われる、「アマチュア無線機」の整備を怠り無く実施しておくことを三度目となる”3.11”を迎えるにあたって誓った事であった。

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