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川端康成『伊豆の踊子』(新潮文庫)

2018-03-15 | 書評「か」の国内著者
川端康成『伊豆の踊子』(新潮文庫)

紅葉の美しい、秋の伊豆を旅する学生が出会った、ひとりの踊子。いっしょに旅をしながら、学生は、まだ少女のあどけなさをのこした、かれんな踊子に、しだいに心ひかれていく。だが、みじかい旅はすぐに終わり、ふたりのわかれは、すぐそこにせまっていた。(「BOOK」データベースより)

◎H2Oを中枢にすえて

主人公の「私」は20歳。一高の制帽をかぶり、紺飛白(がすり)に袴をはき、肩には学生カバンをかけています。そして朴歯(ほうば)の高下駄をはいています。「私」は自分の心が孤児根性でゆがんでいる、と気に病みながら伊豆を一人旅しています。

『伊豆の踊子』(新潮文庫)の冒頭を引用させていただきます。

――道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。

物語の象徴的な幕開けです。「私」は踊子一行を追い求めています。心を病んだ「私」は突然の雨に追いかけられながら、天城峠のトンネルを抜けます。トンネルは「私」の心を象徴しています。踊子を追いかける私が、雨に追いかけられているのも見事な対比です。暗いトンネルを抜けます。私は逃げるように、峠の茶屋にたどり着きます。

そこに踊子一行がいました。暗から明。舞台は一気に明るくなります。踊子は自ら敷いていた座蒲団をはずして、「私」に差し出します。

――突っ立っている私を見た踊子が直ぐに自分の座蒲団を外して、裏返しに傍へ置いた。(本文P8)

こうした懐かしい古風な所作は、物語のなかで随所に登場します。私は本稿執筆にあたり、そうした所作をかみしめて読みました。車谷長吉も同じようなことを書いています。車谷長吉が引用した文章は、湧水を発見したときの場面です。

――「さあお先にお飲みなさいまし。手を入れると濁るし、女の後は汚いだろうと思って。」とおふくろが言った。/私は冷たい水を手に掬って飲んだ。女達は容易にそこを離れなかった。手拭いをしぼって汗を落としたりした。

そして車谷長吉は、次のように文章を結びます。

――当節の女権論者が読めば、眦(まなじり)をつり上げそうな場面である。岩波文庫旧版によれば、この作品は大正十一年から大正十五年の間に書かれたのだそうであるが、大正時代の空気としては、これが自然だったのである。私が生まれ育った昭和二十年代から三十年代の播州においても、これが自然だった。(車谷長吉『文士の魂・文士の生魑魅』新潮文庫P282)

孤独な主人公の高下駄の音は、雨に消されて響きません。それどころか川端康成は、熟知している伊豆の自然描写にも抑制をくわえています。

――川端康成は、伊豆を熟知していた。それこそよく見ていて、綿菓子や飴に至るまで作中に書き込みますよ。もう一つは、文中にもありますが「物乞い旅芸人村に入るべからず」という立て札がある時代でしょう。そういう「踊子」の「きたない美しさ」にひかれた。それが見事に表現されていた。(保昌正夫の発言。『座談会昭和文学史1』集英社P511)

こんな見解もありますが、『伊豆の踊子』は自然描写を抑制しています。そして「H2O」を意図的に書きこんでいます。「雨」「水」「湯」、そして結末の「涙」を物語の中枢にすえているのです。

◎『伊豆の踊子』の誕生

川端康成は『伊豆の踊子』(新潮文庫)を、こよなく愛しています。

――「伊豆の踊子」のように「愛される作品」は、作家の生涯に望んでも得られるとはかぎらない。作家の質や才だけでは与えられない。「伊豆の踊子」の場合は、旅芸人とのめぐりあいが、私にこれを産ませてくれた。(『川端康成随筆集』岩波文庫P325)

引用文は「伊豆の踊子の作者」という見出しで、川端康成自身が『伊豆の踊子』に言及しているものです。79ページもある長い自作解説です。「旅芸人とのめぐりあい」は、1918(大正7)年の伊豆への一人旅を指しています。当時川端康成は18歳で、14歳の踊子・加藤たみに好意を抱きます。

川端康成は『伊豆の踊子』発表以前の1922(大正11)年に、「湯ケ島での思ひ出」を執筆しています。これは東京帝国大学の英文科から、国文科へ転籍した年になります。「湯ケ島での思ひ出」は廃棄され、1925(大正14)年に新たな処女作「十六歳の日記」が発表されます。

そして1926(大正15・昭和元)年に、『伊豆の踊子』を発表します。本作は「湯ケ島での思ひ出」を推敲したものです。なんと107枚の原稿を62枚までそぎ落として、完成させたのが『伊豆の踊子』なのです。自然描写が少ないのは、踊子の所作と「私」の心の動きに力点をおいたからです。

川端康成は幼少のときに両親を失い、祖父母に育てられました。その祖父母も亡くなり、16歳のときに孤児になってしまいます。そんな川端康成の心を、いやしてくれるのは旅でした。川端文学の旅は、女性を求める心の旅といえます。そして川端康成が愛する女性について語られた、こんな文章があります。

――川端康成はトルストイではなく、ドストエフスキーが好きである。主人公としては、令嬢よりも女工のほうにひかれる(川端香男里・川端康成記念会理事長。『座談会昭和文学史1』集英社P512)

「雨」と「湧水」の場面については、引用させていただきました。もうひとつの「H2O」の場面です。長くなりますが、美しい場面を堪能してください。

――仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣所の突鼻に川岸へ飛び下りそうな恰好で立ち、両手を一ぱいに伸ばして何かを叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことことと笑った。子供なんだ。私達を見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背一ぱいに伸び上がる程子供なんだ。私は朗らかな喜びでことことと笑い続けた。(本文P20)

もうひとつ結末部分に「H2O」が登場します。最後の「H2O」には、触れないでおきます。美しい文章のつらなりに、私も旅をしたくなりました。

冒頭で触れた、「私」の恰好を思い出してください。踊子たちと会った茶屋の婆さんは、主人公を「旦那さま」と呼びました。帽子の記章がそう言わせたのです。当時の一校生は、現在の東京大学の教養部にあたります。将来を嘱望された若者の証です。

「私」は確かに孤児根性を持っていますが、帽章に示されている誇りも合わせ持っています。本文中に「私」が帽子を脱ぐ場面があります。「私」と踊子一行との身分の違いを意識しての行動でした。社会的にまだ身分差別が、くっきりとした時代の話です。そんな古き時代へ、『伊豆の踊子』は誘ってくれます。

橋本治は主人公が孤児だったから、こんな自由な行動ができたと書いています。

――『伊豆の踊子』の<私>は、孤児であることが自分を自閉させて頑なにしていると思いこんでいる。でも、実際は違うんですね。彼は、孤児であるからこそ、自由なんですね。自分をとりつくろうための係累というものが、この<私>にはいっさいない。(橋本治『伊豆の踊子』。『私を変えた一冊』集英社文庫P45所収)

身分の違いを超えて踊子に恋心を抱く「私」の、新たな一面を教えられました。
(山本藤光:2012.07.11初稿、2018.03.15改稿)


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