山本藤光の文庫で読む500+α

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ボードレール『悪の華』(集英社文庫、安藤元雄訳)

2018-03-07 | 書評「ハ行」の海外著者
ボードレール『悪の華』(集英社文庫、安藤元雄訳)

1857年6月、発売と同時に検閲にあい、風俗壊乱の罪に問われた『悪の華』は、「きみは新しい戦慄を創造した」とのユゴーの絶賛をはじめ、フローベルなど多くの知友から賞賛された。第二帝政時代のブルジョア社会から忌避され危険視されたボードレールだが、彼の投じた「近代詩」への波紋はヴェルレーヌ、マラルメ、ランボーに、そしてロートレアモンへと拡がり、その後の世界の詩の流れを決定した(「BOOK」データベースより)

◎読者は共犯者

のちに一部を引用させていただきますが、冒頭の「読者に」について、次のような解説を引いておきます。

――のっけから詩人は、詩集全体を貫く最大のテーマである「悪」を、その具体的諸相のうちに列挙、提示しようとする。しかも、その中でもっともたちの悪い「倦怠」の共有を契機に、読者を、有無をいわせずこれらすべての「悪」の共犯者にしたてあげる。(『世界文学101物語』高橋康也・編、新書館P104)

詩を読むのは得意ではない、と思っているかたは多いことと思います。私もそのなかのひとりです。しかしボードレールの詩をはじめて読んだとき、一字一句が心に突き刺さるのを感じました。すさまじい言葉の棘。

――恐らく十九世紀文学の最大の情熱の一つである自意識というものをもって実現し、又これによって斃死したボオドレエルは、まさにリボオの言を敢行した天才であった。(小林秀雄「様々なる意匠」、『Xへの手紙』新潮文庫所収P123)

引用文中の「リボオの言」とは、次のことをさします。
――人体の内部感覚というものは、明瞭には、局部麻酔によって逆説的に知り得るのみだ。(アルマン・リボオ:フランスの心理学者。)

松本侑子は、私と同様に詩集を最後まで読んだのは、はじめての体験と書いています。そのうえで、次のようにつづけています。

――私に限らず全ての読者は、彼の子供じみた甘えを自分の内にも見出し、彼を赦さずにはおれない。共犯者めいた気分を分かち合わずにはいられない。だからこそ読者は、この詩人に親しみ、彼の耽美的な退廃や物憂い甘さに酔い、おののきながら悪魔的な禁断の楽園に足をふみいれ、つい帰りそびれてしまう。(松本侑子『読書の時間』講談社文庫P209)

ボードレール『悪の華』は、物語として読むべきだとの論評もあります。たしかに悪ではじまり、悪でむすばれていますので、そこに何らかの意図があるのかもしれません。本書は醜悪なものの見本市です。しかし並べ方が、なんとも説得力があります。

――この詩集には社会通念としての美しいものはなにひとつありません。登場するのは、それこそ煤煙にまみれた労働者であったり、あるいは路上をさ迷うせむしの老婆だったり、売春婦であったり、あるいは外見の華やかさとは裏腹に内面はぶよぶよの、精神が潰瘍状態になったような貴婦人であったり、要するにわたしたちが普通、美しいと思うものの対極にあるような、退廃した、醜悪なものばかりです。

◎まったく異なる訳文

大学時代に新潮文庫(堀口大學訳)で読んでいました。「山本藤光の文庫で読む500+α」の推薦作としましたので、今回は集英社文庫(安藤元雄訳)で読み直しました。驚きました。まったく訳調がちがっていたのです。

冒頭の「読者に」は、最初の数行は諳んじていました。2つの訳文は、出発点からちがっているのです。

われらが心を占めるのは、われらが肉を苛むは、
暗愚と、過誤と、罪と吝嗇(けち)
乞食が虱を飼うように
だからわれらは飼いならす、忘れがたない悔恨を。
(新潮文庫、堀口大學訳)

愚行、あやまち、罪、出し惜しみ、
われらの心を占拠し われらの体をさいなむはこれ
そこでわれらはおなじみの悔恨どもをかいふとらせる
乞食が虱を養っているのと同じこと。
(集英社文庫、安藤元雄訳)

愚癡(ぐち)、過失、罪業、吝嗇は
われらの精神(こころ)を占領し 肉體を苦しめ、
乞食どもが 虱を飼ふごとく、
われらは 愛しき悔恨に餌食を興ふ。
(岩波文庫、鈴木信太郎訳)

愚かさ、誤り、罪、吝嗇は、
われらの精神を領し、肉体を苦しめ、
われら、身に巣食う愛しい悔恨どもを養うさまは、
乞食たち蚤や虱をはぐくむにも似る。
(ちくま文庫『ボードレース全詩集1悪の華』阿部良雄訳)

もうひとつ紹介させていただきます。ネットに「フランス文学と詩の世界」というサイトがあります。訳者は明らかにされていませんが、こんな訳文が公開されています。

愚行と錯誤、罪業と貪欲とが
我らを捕らえ 我らの心を虜にする
乞食が虱を飼うように
我らは悔恨を養い育てる

ボードレールの詩は、自分の好みの訳文で読まなければなりません。今回は新しい訳文というだけの理由で、集英社文庫を紹介させていただいています。

◎ボードレールの「悪」

多田道太郎は、朝日新聞社学芸部編『読みなおす一冊』(朝日選書)で『悪の華』を取り上げています。そして第108詩を「ふたり酒」とタイトルをつけて、自ら訳文を掲載しています。

「ふたり酒」(多田道太郎訳)
きょう、空間は輝きわたる。
轡(くつわ)もなく 拍車もなく 鐙(あぶみ)もなく
さあ行こうよ 、ワインに 馬のりになって
妖精と神の住む大空に向かって

「愛し合う二人の酒」(集英社文庫、安藤元雄訳)
今日はあたり一面きらきらしている!
轡もない、拍車もない、手綱もないが、
さあ出発だ 葡萄酒の背にまたがって
夢のような神々しい空へ向かって!

「愛し合う男女の酒」(新潮文庫、堀口大學訳)
今日大空は素晴らしい!  
轡(くつわ)も拍車も手綱もなしで
酒に跨って出かけよう
夢幻と聖(きよ)さの空めざし!
(註:本文の「轡」の字は、「行」という漢字のなかに「金」という字がはいります。変換できません)

ちなみに他の訳書は、「恋人たちの葡萄酒」(ちくま文庫、阿部良雄訳)、「恋する男女の酒」(岩波文庫、鈴木信太郎訳、註「恋」は旧字で表記)となっています。

吉田健一は古さが取り柄のパリと、ボードレールの詩を重ねてみせます。私はボードレールの詩のなかに、「若い狂気」を見ました。それゆえに吉田健一が古いパリの光景を発見したのは、すぐれた眼力だと思いました。

――春というのがその人間的で歴史的な意味を具体的に持っているのはパリのような町でマロニエの並木が芽を吹く時である。ボオドレエルの詩の魅力がそこにあり、それがその詩の魅力であることを解るまでには随分掛かった。(吉田健一『書架記』中公文庫P78)

最後にボードレールの「悪」について、触れた文章を紹介させていただきます。笑ってしまいました。若いころの宮本輝と父親との会話場面です。

――父は、その詩を正確に覚えていたらしいが、<田舎ホテルの窓硝子に 悪魔は 全て灯を消した>のところまで暗礁すると、箸を折り、「日本にいんちき詩人をぎょうさんのさばらせたのは、このボードレールや」と怒ったように言った。そして、どんな分野でも、中途半端が一番良くないといった。「真似事は、結局どれも中途半端なものを生む」と父は言いたかったらしい。(宮本輝『本をつんだ小舟』文春文庫P43)

引用ばかりになってしまいましたが、ボードレールは書評家泣かせです。ストーリーや登場人物の紹介が、できないからです。しかし外国の古い骨董市にいるような心境になりました。ページを進めるにつれ、私の心は弾んでいました。
山本藤光:2013.06.21初稿、2018.03.07改稿

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