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ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 (全5巻、光文社古典新訳文庫、亀山郁夫訳)

2018-02-01 | 書評「タ行」の海外著者
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
(全5巻、光文社古典新訳文庫、亀山郁夫訳)

父親フョードル・カラマーゾフは、圧倒的に粗野で精力的、好色きわまりない男だ。ミーチャ、イワン、アリョーシャの3人兄弟が家に戻り、その父親とともに妖艶な美人をめぐって繰り広げる葛藤。アリョーシャは、慈愛あふれるゾシマ長老に救いを求めるが……。(アマゾン内容紹介より)

◎未踏の霊峰への最後の挑戦

 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(全5巻、光文社古典新訳文庫、亀山郁夫訳)をついに読破しました。若いころから挑みつづけて、挫折をくりかえした未踏の霊峰です。ずっと読まなければならないと思っていましたが、第1巻の先にあるベースキャンプにすらたどり着けない状態でした。

本書への挑戦は、年齢的にもこれが最後だと思っていました。大学ノートを買ってきました。徹底的にメモをとりながら読む。そう決めました。写本ではないのですが、登場人物と舞台の描写はすべて書き写す。1日に小見出しを1つ分(約20ページ)を読み進める。自分自身に2つの課題をあたえました。課題をあたえたというよりは、退路をふさいだのかもしれません。
 
 ドストエフスキーの5大小説(『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』)といわれる作品は、すべて書棚で色あせて沈黙していました。いずれも世界文学全集の端本です。最も古い蔵書は、『ドストエフスキー全集6・罪と罰』(1936年筑摩書房)でした。奥付のところにスミレの押し花があり、しおりは176ページのところにはさまれていました。全体の3分の1のところで、呼吸困難におちいったのでしょう。押し花は昔の彼女が読んだ痕跡だと思います。しかし彼女が読破したのか否かは、定かではありません。『カラマーゾフの兄弟』(「世界文学全集19」集英社)には、読んだという痕跡すらありませんでした。

◎サマセット・モームに背中を押され

どの作品から読むべきかと迷いました。そんなときに、W.S.モーム『世界の十大小説』(上下巻、岩波文庫)を読みました。『トム・ジョーンズ』『高慢と偏見』『赤と黒』『ゴリオ爺さん』『ディヴィッド・コパーフィールド』(上巻で紹介されています)と並んで、『ボヴァリー夫人』『モウビー・ディック(白鯨)』『嵐が丘』『戦争と平和』そして『カラマーゾフの兄弟』が下巻で紹介されていました。

 大好きなモームが薦めています。単純な動機で『カラマーゾフの兄弟』を選びました。第1巻には、24見出しがつけられています。予備日を入れて、ほぼ1ヶ月で読み終えることを、ささやかな目標としました。
 
『カラマーゾフの兄弟』は、難解な作品ではありませんでした。きわめて滑らかに、人間関係をとらえることができました。亀山郁夫の名訳のおかげだと思います。1日20ページのノルマを着実にこなしました。「ノルマ」で思い出しました。私たちは何気なく、「ノルマ」という言葉を使っています。これはドストエフスキーが操っている、ロシア語なのです。シベリアに抑留された日本人が、もちこんだ忌まわしい言葉というわけです。

 ドストエフスキーは空想社会主義者として官憲に逮捕され、死刑判決、特赦、シベリア流刑を体験しています。ノルマとは、「ソ連時代の制度で、労働者が一定時間内に遂行すべきものとして、わりあてられる労働基準量。賃金算定の基準となる」(「広辞苑」より)という意味です。1日20ページという私の読書法は、まさに「ノルマ」なのかもしれません。

◎登場人物の息遣いが聞こえた
 
 私は併読主義なので、ほかに4冊の本を併読していました。小説3冊とエッセイ1冊。読んでいて、作品としての格の違いを実感させられました。冷凍餃子を解凍し、フライパンで調理しただけ。併読中の著者たちには申し訳ないのですが、構成力、表現力、物語の展開、人物描写、社会背景などが貧相きわまりないと思いました。『カラマーゾフの兄弟』には、まったく別格の戦慄をおぼえました。心底「すごい」と思ったものです。
 
 ページをくくるのが楽しみでした。登場人物の息づかいが、間近に聞こえました。この時点で、これまでに読んだなかでは、ナンバーワンの小説だと思いました。ゆったりとした、それでいて研ぎ澄まされた小説です。もっと早くに読んでおけばよかった、と後悔させられました。長いことトップに鎮座していた「これまで読んだ作品のベストワン・安部公房『砂の女』の位置を、ちょっぴりと横にずらすことになりました。

『カラマーゾフの兄弟』第1巻は、ちょうど1ヶ月で読み終えました。最後のページを閉じて、ため息をつきました。巻末に翻訳者・亀山郁夫の「読書ガイド」が掲載されています。翻訳力の優劣を語る資格はないのですが、読者目線の解説には好感をもちました。愛しているのだな、この作品をとも思いました。

 あたかも食後のデザートを提供されたような、さっぱりした味わいでした。料理の味をそこなわないようなデザート。亀山郁夫はデザートにまで気配りできる、一流シェフでした。これまでに何人の翻訳家が『カラマーゾフの兄弟』に挑んできたのかはわかりません。亀山郁夫の解説も翻訳も、私には満足のゆくものでした。

◎シェルパーに励まされて

第1部に圧倒されて、第2部、第3部と読み進めました。相変わらず一気読みはしていません。1日20ページ前後のきめごとを堅実に守り、満たされた気持ちで読書を堪能しました。

大学時代に何度も挑戦した、神秘の巨峰でした。これまでは途中で滑落するか、あえぎあえぎ引き返していました。それが呼吸も乱れず、粛々と歩を進めることができました。登山計画がうまくいったのだろうと思います。これまでの読書は焦りすぎていました。読書の目的も不明瞭でした。

 ドストエフスキーを満喫したい。着実に前進する。裾野で見上げる仲間たちに、感動を伝えられるように呼吸を整える。そのために「読書ノート」を用意していました。ドストエフスキーに関する資料を読みあさりました。 

 斉藤孝『ドストエフスキーの人間力』(新潮文庫)や加賀乙彦『小説家が読むドストエフスキー』(集英社新書)が、シェルパーの役割を担ってくれました。

――フョードルは、これ以上はないというほど好色男だ。しかも光源氏のように、洗練された優男とは全く対照的なスケベ男だ。(斉藤孝『ドストエフスキーの人間力』新潮文庫、P214より)

――フョードルはどんな人物かというと、(中略)要するに、全体的に「だぶだぶ」していて、それが「いやらしい淫乱な相を与える」という。これだけでもフョードルの性格がわかります。全然しまらない、太った男。大喰らいで酒飲みなものだから太っている。フョードルはたいへんな金持ちですが、子供たちの養育については、ほったらかしです。そこで子供たちに恨まれ、疎まれている。(加賀乙彦『小説家が読むドストエフスキー』集英社新書、P159より)

自分の理解、イメージとシェルパーのものを重ねてみます。そうすることで、読書中のカラマーゾフ家の父親・フョードルの人物像がよりくっきりとすることになります。
日本の古典を読むときはかならず、「入門書」を併読することにしています。わかったつもりの読み流しを避けるためです。『カラマーゾフの兄弟』のような長編小説を読む場合は、シェルパーをつけることをお薦めしたいと思います。

◎なぜ、カラマーゾフ「の」なのか

『カラマーゾフの兄弟』は、1860年代のロシアの地方都市が舞台です。第1部ではカラマーゾフ一家について、詳しく紹介されています。

 タイトルの不思議について、ふれてみたいと思います。池澤夏樹『世界文学を読みほどく』(新潮選書)は、私の疑問に答えてくれています。なぜ「カラマーゾフの」と「の」が入っているのか? 兄弟3人について書くのなら、「の」はいらないはずです。「の」が入っているということは、「カラマーゾフ家」にウエートがおかれているからです。

 つまり主人公は3兄弟だけれども、そんじょそこらの兄弟とはちがうと、タイトルが語っているのです。これが『カラマーゾフの兄弟』のおさえどころです。カラマーゾフ家にアンテナを張っておきましょう。

 カラマーゾフ家の主は、フョードル・カラマーゾフといいます。この男は酒飲みで、女癖が悪い。ほしいものならなんでも手にいれる、旧ロシアの代表的な地主です。彼は独特の無神論者であり、自らの肉体の衰えを意識しはじめています。詳細については、前項の引用のとおりです。

 フョードルには3人の息子がいます。長男はドミトリー(ミーチャ)といい、熱しやすく冷めやすい単純なタイプです。軍隊から戻ってきたばかりの彼には、カテリーナという、知的な美人の婚約者がいます。カテリーナの父親は中佐で、横領事件のときにドミトリーに助けてもらっています。

◎カテリーナが送金した3千ルーブル
 
 カテリーナの存在が、おさえどころの第2点です。彼女とドミトリーの婚約は、足元が定まらぬふわふわした状態にあります。ドミトリーは老商人に囲われていた妖艶なグルーシェニカに、心を奪われてしまっています。グルーシェニカに対しては、父のフョードルも熱をあげています。
 
父親からの生前遺産まで遣い果たしたドミトリーは、カテリーナがモスクワへ送金しようとしていた3千ルーブルまでかすめとってしまいます。長男・ドミトリーは、金遣いが荒く、物事を自ら解決しようとする姿勢はありません。猪突猛進タイプに描かれていますが、ところどころに詩的な情緒が見え隠れしています。
 
 カラマーゾフ家の次男は、イワン(ワーニャ)といいます。彼は背信論者ですが知的な理論をもっており、父親の無神論とはまったく異なります。第1部では、イワンのあつかいは希薄でした。後述しますが、彼の追い求めている理論は、修道院のゾシマ神父とは相容れないものです。イワンは長男の婚約者・カテリーナに恋情を寄せています。
 
 第1部ではほぼ主役的な位置づけの3男・アレクセイ(アリョーシャ)は、町の修道院で修行をしています。彼は清純な性格で、父や兄を愛しています。アレクセイは修道院の長老・ゾシマを尊敬しており、ゾシマから愛されてもいます。

 ここまでが、カラマーゾフ家の、父親と3人兄弟のレビューです。本書は通勤通学電車の中で読んではいけません。じっくりとメモをとりながら、集中してもらいたいものです。

 いまは1ロシアンルーブルは、3.10円のレートです。カテリーナが送金しようとした当時の3千ルーブルとは、どのくらいの貨幣価値だったのでしょうか。当時のロシアは、どんな世のなかだったのでしょうか。時間があれば、そんなことも学んでみたいと思います。ドストエフスキーが信奉していた空想的社会主義とはなにか。シベリアでの服役を終えたドストエフスキーが熱心に学んだキリスト教人道主義とはなにか。調べてみたいことがたくさんあります。

 すでにカラマーゾフ家について、紹介させてもらっています。カラマーゾフ家には、グリゴリーという下男と、妻のマルファが同居しています。そして2人に育てられた、スメルジャコフという若者が料理人として住みこんでいます。スメルジャコフは人間嫌いですが、イワンの思想を崇拝しています。
 
 ある日、カラマーゾフ一家全員と親戚のミウーソフが、修道院のゾシマ長老を訪ねます。一家が抱える難問を、会合により解決しようというのがフョードルのねらいでした。会合は国家や教会をめぐる長い議論や父親の道化ぶり、遅れてやってきたドミトリーの狼藉などで、解決の糸口さえつかぬまま終わってしまいます。

◎ドストエフスキーはカトリック嫌い
 
 文芸評論家の多くは、ドストエフスキーの哲学に注目しています。でも素人読者は、面倒で高尚なやりとりを流してしまうしかありません。ただしおさえておきたいことがあります。これが3番目のポイントです。
 
 どの「ドストエフスキー論」を読んでも、「ドストエフスキーは大のカトリック教ぎらい」であったとあります。少しだけ宗教について、ふれておきたいと思います。この知識があれば、カラマーゾフ家の激しい議論に、少しは入りこめると思うからです。

――カトリックの思想では、「奇跡」が非常に重要な位置を占めています。足が不自由で動けない者の足に触れたら立ち上がって歩いたとか、その種のことです。(池澤夏樹『世界文学を読みほどく』新潮選書より)

――ロシア正教会の歴史で、ドストエフスキーがもっとも重大な関心を払ったのが、十七世紀半ばに起こった教会分離である。(中略)ドストエフスキーは、正教会から独立した人々を小説の中に取り込むことで、ロシアの精神生活にひそむ、本質的にラディカルな特異性を明らかにしようとした。(『カラマーゾフの兄弟1』光文社古典新訳文庫、「亀山郁夫あとがき」より)
 
 さらに当時のロシアの社会問題について、理解しておかなければなりません。ドストエフスキーという作家の特質を、語っている文章を紹介します。
 
――ドストエフスキーは時代の動きと、同時代の問題に特に敏感な作家であった。現実の問題をいかに小説にまとめあげるか、また小説の中でこの問題をどこまで掘り下げるか、それが彼にとっては問題なのである。(『ドストエフスキー全集6・罪と罰』筑摩書房・訳者小沼文彦のあとがきより)

 当時のロシアは飲酒と無軌道な少年犯罪が、社会問題となっていました。1861年農奴開放以降は、貴族たちから権限を奪い、中間階級の人々がが変革の担い手になってゆきます。社会は混沌としており、青少年はそのはざまに取り残されてしまっています。

 というわけで、感動の第1部は終わってしまいました。私のようにちゅうちょしている人がいたら、騙されたと思って第1部だけでも読んでもらいたいと思います。

 第2部(2巻)からは、これまで主役だったカラマーゾフ一家に関する記述が激減します。かわりに脇役だった人物に、スポットライトがあたります。私は第2部を読みはじめて、1日20ページという設定がわずらわしくなってしまいました。
 
 脇役のなかでもっとも中心になるのは、「スメルジャコフ」というカラマーゾフ家の召使です。24、5歳くらいで、ひどい人間嫌いです。彼はフョードルの隠し子であるともいわれています。ばらばらなカラマーゾフ一家に、寄り添うように登場する彼は、不快な臭気を散りばめます。
 
 詳しくは書きませんけれど、第2部から第3部へはいくつもの支流から、薄汚れた思惑が一気に流れこみます。特にスメルジャコフとイワンとのかかわりに、注目しておいてもらいたいと思います。この流れは他の水と混じりあうことなく、汚物を運びつづけるのです。

◎生涯読書の最高峰

 サマセット・モームは前記のように、「世界の十大小説」として、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』をあげています。W.S.モーム『世界の十大小説(下)』(岩波文庫)には、長文の論評が掲載されています。ひとつだけ引用しておきたいと思います。
 
――ドストエフスキーがしばしば用いる一つの手のあることを言っておこう。それはこうである。彼が描く人物は、それぞれが口にする言葉とは釣り合いがとれぬほど興奮する。顔を赤らめる。顔色が青ざめる。さらには恐ろしいまでに蒼白になる。そして何でもないごく普通の言葉にも、読者には容易に説明のつかない意味が付けられているので、いま言ったような常軌を逸した挙動や病的な感情の激発に接して、読者は次第に興奮をおぼえ、ついには神経が極度に高ぶってきて、そうでなければ、ほとんど心の動揺をおぼえないでしまうようなことが起こっても、容易に心底から衝撃を感じてしまうのである。(本文P225より)

 ドストエフスキーにふれた文章は、数多くあります。つぎに紹介する一文などは、その典型です。まだまだドストエフスキーの世界は、広く深いのだなと痛感させられます。ドストエフスキーがカトリック、とりわけイエズス会を嫌いました。それなら彼は、歌舞伎を絶対に評価しないだろうな。そんなことを考えてしまったほどです。
 
――イエズス会演劇は、バロック演劇の一分派。バロック演劇では、名誉とか、復讐とか、陰謀とか、裏切りとかが重要なモチーフになる。歌舞伎も同じ。(丸谷才一『思考のレッスン』文春文庫P220)

 私の生涯読書のなかで、最高傑作が『カラマーゾフの兄弟』でした。なんとしてでも、読んでいただきたいと思います。おおげさにいえば、「これを読まずして死ねるか」と結んでおきます。

 読後になおもやもやしたものがあるなら、江川卓『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』(新潮選書)をお薦めします。
(山本藤光:2014.06.04初稿、2018.02.01改稿)


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