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ヘルマン・ヘッセ『車輪の下で』 (光文社古典新訳文庫・松永美穂訳)

2018-02-04 | 書評「ハ行」の海外著者
ヘルマン・ヘッセ『車輪の下で』 (光文社古典新訳文庫・松永美穂訳)

周囲の期待を一身に背負い猛勉強の末、神学校に合格したハンス。しかし厳しい学校生活になじめず、学業からも落ちこぼれ、故郷で機械工として新たな人生を始める…。地方出身の一人の優等生が、思春期の孤独と苦しみの果てに破滅へと至る姿を描いたヘッセの自伝的物語。(「BOOK」データベースより)

◎実話に基づいた作品

高校時代、この作品を読んでいなければ軽蔑されました。北海道川上郡標茶(しべちゃ)町には書店が1軒しかなく、汽車に乗って釧路まで『車輪の下』を買いに行ったことがあります。無事に本を買って、当時流行っていた映画「愛と死をみつめて」を見ました。ガールフレンドといっしょでした。

 ヘルマン・ヘッセは、1960年代の高校生にとっては必読書でした。『車輪の下』は、ヘッセの自伝的な小説だと聞かされていました。年譜を眺めてみると、なるほどと思います。ヘッセは14歳のときに、州試験に合格して神学校に進んでいます。富裕層の子どもにとっては、なんのことはない道です。ヘッセが神学校に進むためには、給費生にならなければなりませんでした。つまり優秀でなければ、絶対に入ることができないコースだったわけです。
 
 訳者のあとがきを読んで、はじめて気がついたことがあります。タイトルが『車輪の下』ではなく、『車輪の下で』となっていたのです。訳者・松永美穂は、つぎのように書いています。

――新訳にあたって、タイトルを『車輪の下で』にしてみた。これまでにも『車輪の下に』というバージョンがあったけれど、既訳の大部分は『車輪の下』というタイトルである。「で」という助詞を加えることで、運命の車輪の下で悶え苦しむハンスの、その闘いぶりが現在進行形で伝わるのではないか、と思った。(訳者あとがきより)

 私は馴染み深いタイトルを変えることには、反対です。特に翻訳文学では、第一訳者のタイトルを尊重すべきだと思います。よく単行本のタイトルを、文庫版で変えてしまう作家がいます。それを知らないで、買い求めたことが何度もあります。とくに折原一(好きな作家です。)は、やりすぎだと思います。本文に加筆修正するのはかまいません。タイトルにまで手をつけるな、といいたいのです。
 
◎傷つきやすい少年の心

 主人公のハンス・ギンベンラートは、優秀な田舎の子どもでした。川遊びや魚釣りの好きなどこにでもいる少年は、周囲から大きな目標を与えられます。州試験に合格して、神学校に進むこと。給費金を受けてさらに大学に進み、将来は牧師か教師になること。そのための特訓がはじまります。
 
 ハンスの母親は他界しています。勉学に関して父親は頼りになりません。ハンスは大好きな遊びを封印し、受験勉強に明け暮れます。ハンスは無事に合格し、神学校生となります。寮生活がはじまります。寮では難しい学問と躾が待っていました。
 
 大方の寮生はまじめでしたが、異端児もいました。ハイルナーという生徒は教師に反抗的で、寮内でも浮いた存在でした。ハンスはハイルナーと親しくなります。ある日、ハイルナーはハンスにキスをします。詩人で男らしく奔放なハイルナーにたいして、ハンスは同性愛的な親愛感をもちます。ここからハンスは、勉学への熱を失ってしまうわけです。
 
 ハイルナーは寮を脱走し、悩んだハンスは心の病にかかります。ハンスは追いだされるように、故郷に戻ります。ハンスは故郷で、進学のときに世話になった、靴屋の姪・エンマと知り合います。キスをしました。豊満で若々しい女性に、ハンスは心を奪われます。しかしエンマは、突然ハンスの前から消えてしまいます。
 
 孤独なハンスは神学校を辞め、いちばん嫌っていた職工になる決意をします。著者のヘルマン・ヘッセも半年ほどで、寮の規律に耐えられずに脱走しています。ヘッセには、詩人になるという夢がありました。しかし『車輪の下で』のハンスにはそうした夢すらありませんでした。絶望のなかハンスは青い作業服に身を包み、機械工の見習いとなります。
 
 見習いとなったハンスは、年上の娘のからかいにあい、混乱し自滅してしまいます。ヘッセはガラス細工みたいな少年の、壊れやすい心理を巧みに描いています。

◎印象的な2つのキス
 
 ハンスは初めてのキスを2回経験しています。男ともだち・ハイルナーと、若い女性・エンマとのキスです。それぞれのキスのあと、ハンスの心は乱れてしまいます。その場面が印象的でした。引用してみましょう。
 
――暗い宿泊所に一緒にいて突然キスするなどということは、どこか冒険的な新しいこと、ひょっとしたら危ないことだった。こんな様子を見られたらどんなに恐ろしいか、という思いが浮かんだ。(男ともだち・ハイルナーとのキスのあと)

――彼は深い脱力感に襲われた。見知らぬ唇が自分から離れていく以前にもう、体中をふるわせる欲望が、死ぬほどの疲れと苦痛に変わっていった。(エンマとのキスのあと)

 幼いハンスは、突き放されつづける毎日を送りました。自分の未来を父親や校長に、頭がいいのだから神学校を目指すように突き放されました。大好きな川遊びからも突き放されました。神学校の宿泊所の仲間からも、教官たちからも突き放されました。そんなときに、ハイルナーとキスをします。はじめて受け入れてもらったことに、ハンスは心を痛めます。
 
 そして危ないキスのあと、体中を震わせるキスを経験します。このときハンスは、心底受け入れてもらったことに喜びを覚えました。背伸びし、打ちひしがれていたハンスを抱きしめてくれた2人。2人はハンスの小さな胸に、強烈なインパクトを与えて消えてしまいました。
 
 胸にジーンときた、とてもいい作品でした。私のはじめてのキスは、『車輪の下』を買い求めた帰路だったことを思いだしました。
(山本藤光:2009.09.05初稿、2018.02.04改稿)

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