私の父は中学の田舎教師でした。
もう33年前に54歳の若さで他界しましたが、まあ何とも云えない人でありました。
頭は目茶苦茶良かったらしく、今で言えば東大位にはラクに入れたと、父の同級生の方々から、父の葬儀のときにそういわれたことを覚えています。
そして私が中学生のとき、運悪く、父も同じ中学校に赴任しておりました。
廊下ですれ違うだけで、バツが悪かったのを覚えています。
300人中10番くらいの成績で中学に入りましたが、部活(野球部と後に引き抜かれて合奏部)に打ち込む内に、学業は次第に疎かになっていきました。
そんな私が余程に歯がゆかったのでしょうか・・・・。
父はいつも苦虫を噛み潰したような顔で、
「どうしてお前は勉強をせんのだ・・・。やれば俺の子なのだからもっと出来る筈だ・・・・。」
と言ったり致しました。
こっちは誰の子であろうと知ったことではないと思っていましたから、親子間での見解の相違なんであります。
理数系の教師だった父は、いつも皮のスリッパをペタペタと音を立てながら廊下を歩いておりました。
その音で、教室の中に居ても父であることが判ったくらいです。
理科の時間、教科書を開いて先生が来るのを待っていると、遠くからそのペタペタが聞こえてきました。
ああ、父が歩いていると思っていると、その足音が私のクラスの教室の前でパタリと止まりました。
心臓がドクン、ドクンと高鳴り、まさか・・・・と思った時に木造教室の引き戸がガラガラと開いて、父は苦虫を噛み潰したようないつもの顔で入ってきました。
「気を付けぇ・・・・。」「礼っ・・・・」
何と、心の整理がつかないまま、授業が始まりました。
担当の理科の教師が風邪で休まれたとのこと。
父がピンチヒッターということのようでありました。
縦・横・斜めのクラスメートから、ひそかにからかわれながらも
その授業の間中、私はずっと下を向いたままでした。
父が何を教えたのかも、何を喋ったのかも覚えていないほどバツの悪かった私でありました。
父から直接授業を受けたのは後にも先にも、この一回だけなのでした。
それから45年余の月日が経ち、今日私は晴れて中学の教師になりました。
武雄中の要請で「職業人に学ぶ」という公式の授業の教師として教壇に立ったのでした。
中学生の目線で、彼らが理解できる範疇で金融業というものを語らねばなりません。
それは、とても難しい挑戦でもあります。
私は「仕事の社会的な意味」と、
余ったお金は預金として預かり、不足している先に貸し出す「金融という仕組み」、
さらに「ハンカチ一枚、鉛筆1本すら作れぬ私が何でご恩返しをするのか」という話
そして「深く穴を掘ろう」という話を、汗をかきながら一所懸命に彼らの心に向って話しかけました。
「人の心を幅広く理解できる自分になるために勉強をするのだ」ということを、判りやすく穴を掘ることに例えて話しました。
深さ1メートルの穴を掘るには、直径3メートルが必要なのです。
つまりは物事を深く考えて突き詰めていくと、自ずと直径が広がっていくのですね。
直径は自分のモノサシと考えれば、見識が広がり色んな事柄に対応が出来ることとなり、そして相手の気持ちも理解できるようになる。
しかし自分のモノサシが相手より小さかったら、相手様のことはすべては理解できないことになります。
お客様の良き相談相手になるためには、相手様以上のモノサシを自分の中に持っていなければなりません。
このことが金融マンにはとても大事なことだと申しました。
授業の後半は質問攻めでタジタジになりながらも、私の貴重な教師体験は何とか持ち時間をまっとうできました。
教壇に立った時に、初めて父の気持ちが少しは理解できたように思いました。
人にモノを教えることの難しさ。まして社会のことを知らない中学生に・・・・。
しかし、中学生は実に可愛くてたまりませんでした。
父も多分そう思っていたのだと・・・・。
私の拙い話は中学生に届いたのでありましょうか・・・・。