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足利学校

2009-03-11 23:55:25 | 日常&時間の旅


往年時に復元された方丈から、同じく復元された庭園を望む。


 足利学校の創立に関しては諸説があって、平安時代初期から鎌倉時代まで論争が繰り広げられているそうです。教科書に登場するのは室町時代・・・確か、1432年に領主の上杉憲実が学校を再興したと教わりました。最も栄えたのは天文年間(1550年頃)で、「学徒三千」と言われるようになり、宣教師として来日したフランシスコ・ザビエルも「日本で最も大きく有名な坂東の大学」と紹介しています。
 足利学校のメインは儒学と易学でしたが、兵法や医学といった分野も学ぶことができ、日本で初めて「学長制」を採用したことからも、現在の総合大学に相当する役割を担っていました。天文年間というと、天下争乱のたけなわ。この頃、学問に励む人もいたとは、「目からウロコ」というか、ニンゲンはやっぱり「知の動物」だったんですね~♪


(左)足利学校入口。学校の中に入るには、「入徳門」「学校門」「杏壇門」の三つの門をくぐらなければならない。学生たちは強い決意を抱いて「門」をくぐったのだろう。「門」の重みについては、夏目漱石の三部作(『三四朗』『それから』『門』)の最後になる『門』を読むといいかも?
(右)参道のような道を行くと第二の門「学校門」が迎えてくれる。他の門は(火災により)再建された門だが、「学校門」は創建当時の寛文八(1668)年のままで、足利学校のシンボルになっている。


     

 杏壇門をくぐると、孔子廟が現れる。寺院でいえば金堂に相当する? 寛文八(1668)年の創建当時のままの姿を現代に伝えており、廟の中央に孔子座像が祀られている(左写真)。その隣には小野篁の坐像(右写真)も! 古くから「足利学校は小野篁の創建なり・・・」と伝えられてきたので、創始者として奉ったそうだ。小野篁は平安時代の官僚で、京都の六道珍皇寺の井戸から冥界へ下り、閻魔大王にも使えたと言われている面白い人物。


     

 役目を終えた足利学校は明治5(1872)年に廃校になるが、その頃には孔子廟などわずかな建物を残すだけになってしまった。1990年に方丈や庭園などが江戸時代中期の姿に復元され、現在に至っている。


 足利学校のHPは、 → ここをクリック


エピローグ ~言問橋から浅草寺へ

2009-01-14 11:20:25 | 日常&時間の旅

 吾妻橋から見た東武線隅田川橋梁。東武鉄道が浅草に乗り入れるため架けた橋で、昭和6(1931)年に竣工した。隅田川の景観を損なわないように、高いトラスを設けなかったため、電車からも隅田川の景観を楽しめる(上流に言問橋と桜橋。下流に吾妻橋)。戦前は橋の東側(向って右)に隅田公園駅があった。橋の西側に浅草駅があることから、電車は非常にゆっくりと橋を渡るのだが、この「ゆっくり」がなかなか風情があってよろしい。電車は頻繁に行き来してくれるので、ちょっと足を止めて眺めてみよう~♪


 年末に(ダイジェスト版が)再放送された日本テレビの『東京大空襲』をご覧になった方は記憶に新しいと思いますが、人々は「橋の向こう側に渡れば助かる」との必死の思いで、関東大震災復興事業の一つして架けられた言問橋を目指しました。浅草側からも隅田側からも人々が避難してきて、全く身動きが取れなくなったところに(この時点で圧死する人も出た)、火の粉を浴びなくても自然発火するほど高熱の火災嵐が容赦なく襲いかかり、人々は生きたまま焼かれてしまいます。苦しさの余り川に身を投げた人には凍死(水温は0度近かった)や圧死が待ち受けていました。言問橋だけで数千人が亡くなり、隅田川と隅田川に注ぐ水路は(末期の水を求めて力尽きた人も多数いた)亡骸で埋め尽されたと言われていますが、悲劇の現場となった言問橋に立ったところで、地獄図を想い描くことは不可能でした。毎日、世界のどこかで似たような悲劇が繰り返されていることも知りながら、想像すらできない・・・戦争の恐ろしさは当事者になってみないとわからないのでしょうか?


 隅田川に架かる橋梁はどれも魅力的で、まだ記事にはしていないけれど、ぼちぼち歩いています。言問橋(写真左)もそうでしたが、耐用年数が迫り、改修&補強工事をしている橋も見受けられます。浅草(吾妻橋)~日の出桟橋(JR浜松町駅から徒歩15分)を往復している水上バスに乗れば、吾妻橋から勝鬨橋まで欄干をくぐれるよ~♪(右写真は、吾妻橋をくぐろうとしている下りの水上バス)


 この後、ついでだから浅草寺にお参りして行こうと、仲見世通りにショートカットしたら、参詣に訪れた人々の長蛇の列が壁となって立ちはだかった・・・警備の警察官も出ていて、最後尾(雷門)から並ぶように声をかけていた。列は微動だにせず、1時間待ちは必至なので、「人形焼」をお土産に買い、五重塔をひと目見るや駅に戻った。途中で食べた味噌田楽がやたらおいしかった(甘納豆も!)のだけど、一度散財してしまうと「たが」がはずれてしまうのか、安さに惹かれて(500円!)中途半端な時間にうな丼まで食べてしまうとは・・・少し反省!


牛嶋神社 ~「撫で牛」と「丑」のお守り

2009-01-13 21:53:53 | 日常&時間の旅

牛嶋神社の撫牛


 今年も、早くも、行動に記事が追いつかなくなっていますが、1月2日の続きをさっさと綴ることにしましょう・・・さて、目指す牛嶋神社の位置が今一つ(というか全然)わからないまま浅草の駅に降りた(正確には地下から地上へ「上った」)にわとりさんは、隅田川を渡れば何とかなるだろうと、吾妻橋に向かったのですが・・・


 墨田川のほとりに出たとき、ウルトラ警備隊の格好良い船が180度向きを変えて東京湾へ出港するところだった・・・というのは嘘だけど、この未来的なフォルムは、科学特捜隊の60年代が描いた未来形ではなく、ウルトラ警備隊の70年代が描いた未来形だと思った。背後の、これまた格好良いトラス橋は、東武東上線の橋梁だよ~ん!


      

 黄金のウ○コ(孫悟空が乗っていた「觔斗雲」と呼ぶ人もいるけど)が光り輝くアサヒビール本社ビル(写真左)。ビルの足元には、篤姫と共に江戸の無血開城に心血を注いだ勝海舟の銅像(写真右)が立っている。


 橋を渡って交番で道を尋ねた。牛嶋神社は言問橋のすぐ近くにあった。創建は何と860年! 5年に一度の大祭では「牛車」を中心に古式豊かな行列が町内を巡行するそうなので次回(2012年)が楽しみだ。吾妻橋から言問橋までは、ゆっくり歩いても10分程度の距離。ご覧のとおりの立派な大社で、写真では少しわかりにくいかもしれないが、全国でも数少ない三輪鳥居(三連の鳥居)も一見の価値あり!


(左)桧権現造りの重厚な社殿。牛嶋神社は江戸時代になってから大いに栄えた。江戸城の鬼門を守る神社として将軍家の崇敬も厚く、江戸市民からは「撫で牛」で親しまれた。今年が「丑」年で、新聞が取り上げてくれたからお参りすることができたのだけれど、こうしたことが伝わらない「情報社会」とは、いったい何だろう?
(右)江戸の頃から、「自分の具合の悪いところと同じ場所を撫でると治る」と言われ、信仰を集めてきた「撫で牛」。1月2日の午後も行列ができたが、それでも待ち時間はせいぜい7~8分。DLのアトラクションに並ぶよりはるかに楽! 牛嶋神社は「桜餅」で有名な長命寺の近くにあったのだが、関東大震災後に震災で焼失した跡地に隅田公園が造られた際に(隅田公園については三月頃に・・・)、現在の地に移設された。それが幸いして? 東京大空襲の際も奇跡的に被害を受けなかった。数千人が命を失った言問橋は、牛嶋神社から目と鼻の距離にある。


(左)これが噂の?「撫で牛」。無数の人々に撫でられてピカピカ! 涎かけが可愛い。
(右)12年に1回「丑」年にだけ焼かれる「牛のお守り」(2500円)。形は毎回異なるそうだが、五年に一度の大祭に「神牛」として登場する「黒牛」がモデルだとか・・・ちなみに、座布団はつかないので作ってあげましょう~♪

 ここで一度切ります・・・。


2009年、正月の井の頭公園

2009-01-07 10:31:15 | 日常&時間の旅


 そうそう長居をしていられないので(と思いつつも11時を回ってしまい、先がつまってきた・・・)、ゾウの「はな子」が、餌を食べ始めたのを確認すると、文化園を後にしました。そのまま井の頭公園内を歩いて、京王線「井の頭公園」駅から渋谷に出て、銀座線に乗換え浅草に行こうという算段でした(何でも牛嶋神社は浅草駅から徒歩10分とのことなので)。
 文化園と井の頭公園(分園もある)を結ぶ歩道橋の上から、遠目に富士山が見えました! 最近は、マンションにさえぎられて、国立でもなかなか見ることができなくなってしまったのですが・・・。


 雲一つない澄み切った青空の下、陽光を浴びる弁天池。いつもの休日と比べても、意外なほど人の姿がなく、静かな雰囲気がいかにもお正月といった感じでした。



 鴨たちも丸まってのんびり日向ぼっこ・・・上野公園もそうですが、数年前と比べると鴨の数が半分以下に減っています(喜ぶべきことなのでしょうか?)。お腹のあたりの点々は水滴です。小さな写真だとわかりませんが、羽毛が見事に水をはじいて通つやつや輝き、とても健康的に見えましたが・・・。


 この時間帯の「井の頭池」は逆光になるのですが、きらきら輝く水面を眺めながら岸辺を歩いていると退屈しません。光と影が見せてくれる「ゆらぎ」は、究極の「癒し」かも?


(左)スワンボートも今日は開店休業? 自分たちが高校生の頃、「井の頭公園のボートにカップルで乗ってはいけない」と、まことしやかに囁かれていました。「必ず破局する」から乗ってはならなかったのですが、なぜそう言われるようになったかは誰も知りませんでした。「女性である弁財天が嫉妬して別れさせてしまう」のであって、「だから、ボートに乗った後で弁財天にお参りすれば問題はない」ことを最近知りました。「都市伝説」の一つだけど、誰が最初に言い出して誰が解決策を思いついたのか、考えてみると面白いですね。
(右)ぶらぶら歩いていると、井の頭線の小さな陸橋が見えてきました。ちょうど電車がやって来たので、振り返ってシャッターを切りました(駅に向かうには橋の手前で曲がらなければならなかったのですが、気づかず通り過ぎた・・・)。


年男あをによし・・・牛嶋神社へ

2009-01-02 23:59:10 | 日常&時間の旅


牛嶋神社 壱の鳥居


 今年の干支は「丑」。というわけで、「(馬)鹿男」から「年男」へ出世しました。それはともかく、「年男」になるのは今回が4回目なので、次回は何と還暦!を迎えることになってしまいます。光陰矢のごとしと言いますが、全くもって信じられません。この調子だと、竜宮城で鯛や平目と舞い踊りしている間に、月日が経つのを忘れていつの間にか「じいさん」になってしまった浦島太郎そのままではありませんか!
 そこで、今年一年はいつもに増して一日一日を大事にしようと心に誓いました。どちらかというと、生き急いでいる感じなので、「丁寧に」生きようと思います。
 とはいっても、四日から仕事(夜勤)なので、そうそうのんびりしていられません。2日の今日は、恒例の「井の頭初詣」+(丑年ということで)向島の牛嶋神社にお参りしてきました。日中は風もなく、まずまずの散歩日和でした。


新年あけましておめでとう、今年もよろしく~♪
 

岡本太郎『明日の神話』。井の頭線から銀座線に乗り継ぐ際に観た!


未来都市「TOKYO」


(左)牛嶋神社(創建=860年!)の名物「撫牛(なでうし)」。江戸時代、境内にこの石像が造られ、「具合の悪い所と同じ部分を撫でると治る」として信仰を集めてきた。ニワトリさんが重点的に撫でたのは「頭」・・・これで「(馬)鹿頭」から卒業できる?
(右)十二年に一度、丑年だけ作られる焼き物「牛のお守り」(黒い牛がそれ)。「撫牛」ができた頃に、お守りも作られるようになった。毎回形を変えながら今日まで受け継がれてきた伝統のお守り。牛嶋神社は下町の風情も感じられるアットホームな神社だった。

 この日はいろいろあったのですが、明日(すでに今日だけど)「18きっぷ」で出かけるつもりなので、ひとまず筆を置きます・・・。


「藝大アーツ イン 東京丸の内」 ~丸の内散歩

2008-10-14 23:10:00 | 日常&時間の旅


 この時期、大きなキンモクセイが素晴らしいけど、植込みの草花もかなり「アート」していました。あちこちに置かれた「牛」を探しながら丸の内界隈を歩き回りました。
 Cow Parade Tokyo Marunouchi 2008 は今月19日(日)まで。
  公式HPは、 → ここをクリック


 さて、廃墟と化した東京中央郵便局(エンジェル君が座っている郵便ポストも、投函口が目張りされていました)を後にしたニワトリさんは、久しぶりに丸の内界隈を散歩することにしました。交差点を渡って丸ビル内に入ると(実はトイレに行きたかっただけ)、1階吹き抜け(マルキューブ)に特設ステージが組まれていて、その中央に家具のようなピアノが置かれていました。


                   

(左)主役のスクエアピアノより、唐獅子の飾りの方が目立つ?(というか、最初はこれに目がいった)。10月6日~13日まで毎日、ランチタイムを中心にスクエアピアノのミニ演奏会などが開催されていました。題して「藝大アーツ イン 東京丸の内」。この日は『明治の洋楽はアメリカから』をテーマに、副学長によるスクエアピアノの演奏会が13時から約1時間ありました。偶然その場に飛びこんだ次第ですが、リストの「愛の夢」も聴けて、ラッキー~♪
(右)マルキューブの吹き抜け。透明エレベータが格好いいなあ~! ガラス&木をうまく組み合わせて、開放的で暖かい空間を演出しています。首が痛くなるほど、見上げてしまいました(でも、エレベータには乗らなかった・・・)。



                   

(左)修復されたアメリカ・チッカリング社製「スクエアピアノ No.53749」(1879年製)。屋根、脚、ペダル部を失い、鍵盤も外された状態で長いこと放置されていましたが、5年の歳月をかけて修復され、今年の1月、かつての音色を学び舎に再び鳴り響かせました。文字どおり長方形のスクエアピアノは19世紀に普及しましたが、大型のものが主にアメリカで流行し、楽器として使われるだけでなく、高級家具として部屋の装飾にも一役買いました(天板を閉じればテーブルに変身。引出し付きのピアノが流行った時期もあるとか・・・)。音楽家では、フォスターが同じチッカリング製のスクエアピアノを愛用しており、ガーシュインもスクエアピアノを愛用していたそうです。
(右)明治12年(1879)、明治政府は近代化の一環として「音楽取調掛」(東京音楽学校の前身)を創設し、アメリカから10台のスクエアピアノを購入しました。修復されたチッカリング製のスクエアピアノもその中の1台で、音楽教育の黎明期に鳴り響いた音を今聴いていると思うと(瀧廉太郎が、バッハの「イタリア協奏曲」を独奏)、何とも言えない感慨を覚えました(途中、居眠りもしましたが・・・)。
 最初にショパンを3曲、続いてシューベルト、ドビュッシー2曲、最後にリストを2曲という内容でした。初めてスクエアピアノの音を聴きましたが、箱の中で音が美しく響き渡る様子が「見える」ような音でした。一音一音は硬いけれど、それがメロディになると、非常にソフトに耳に入ってきます。「愛の夢」のイントロが流れた瞬間、『純情きらり』の例のシーンがちらついてしまいました。


東京中央郵便局も・・・ ~変貌する丸の内

2008-10-13 23:56:15 | 日常&時間の旅



 ものすごい勢いで変貌してしまった丸の内界隈で、東京中央郵便局だけがそのままの姿で今も現地に建っている。東京駅付近の再開発を推し進めるべきだと考える人には目の上のたんこぶかもしれないが、この建物が壊されずに存在していることは非常に重要だと思っていた。
 10月12日に丸の内南口に降りたとき、目の前の東京中央郵便局がもぬけのカラになっているのを見て愕然とした(最後に訪れたときは、郵便局でお金をおろした)。
 とうとう、この建物も解体されてしまうのか・・・そのそばで東京駅の改修工事が行われている。こちらは、新築当時の姿に復元する工事だけれど、東京駅以外の建物が全て解体リニューアルされてしまったら、工事のありがたみも幾分薄まってしまうのではなかろうか。その意味でも、東京中央郵便局は東京駅とセットで残されるべきだった。
 冒頭の写真は、「鉄道フェスティバル」の帰りに撮影した。明治生命館(1997年に昭和の建物としては初めて重要文化財に指定された。同じく丸の内にある)のような「わかりやすさ」はないが、古典主義が良くてモダニズムがダメといってしまったら、昭和の名建築物は何一つ後世に残れない。
 背後の高層ビル群が邪魔なので、手前の道路をたくさん入れて建物も際立たせた。あとで調べたところ、再開発計画では、東京駅の景観と調和させるため(ニワトリさんの言うとおりじゃん)建物の外観をできるかぎり残し、背後に折り紙をイメージした全面ガラス張りの高層ビル(地下4階地上38階)を建築するとのことだ。外観が残ったところで背後の建物が邪魔なことは変わらないし、それ以前に外観だけ残すことに何の意味があるというのか? それで建物を残したことにされてしまったら、こんなひどい話はない。
 また、新しい高層ビルは地下通路で東京駅や東京フォーラムともつながり、丸ビル&新丸ビルとも連携して都市機能を高めた魅力的な空間を提供するとのことだけれど、地上でつながっていることが重要なのに、全然それをわかっていない。雨に濡れない利便性よりも外気を直接肌に感じることの方が大事なのだ。この界隈の散歩を楽しんでいるとき、信号待ちが結構煩わしかったので、車に地下へ行ってもらって地上を人々に開放するのはどうだろうか?
 千数百億円の総工費については、完成すれば年間250億円のテナント料を見込めることから数年でペイできるとのことだが、これこそ「最初に計画ありき」の「絵にかいた餅」のような気がする。大きな利益が見込まれた巨大プロジェクトがその後どうなったか? 昭和の建築遺産を後世に伝えることの方がはるかに大切だと思う。


                   

 人でごったがえした「鉄道フェスティバル」会場を後にし、お堀端を歩きながら東京駅へ戻ります。二羽の白鳥が優雅に右から左へお堀を泳いでいきました。


 こちらが明治生命館。1934年(昭和9年)に竣工しました。コリント式石柱が並ぶ古典主義のルックスは確かに素晴らしい。写真の下には、数十人の外国人女学生が一列に並んでいました。これって、アメリカの修学旅行?


 東京中央郵便局は1933年(昭和8年)に竣工しました。2008年7月まで使っていたそうです。東京駅とは地下通路でつながっていて、1978年まで鉄道郵便物のトロッコ輸送が行われていました。可能な限り保存&再現するとのことですが、可能な限りでは駄目なんだってば! 上野百貨店の閉鎖といい、今年もまた東京を代表する建築物が無くなろうとしています。


     

 この日の丸の内は特設会場が設けられ、オリンピックのメダリストも参加したイベント(多分、2016年のオリンピック招致に関するイベントだと思う)が開かれていましたが、ニワトリさんが大いに気になったのが、街中に置かれた等身大の牛の置き物。「鉄道フェスティバル」に行く前から気になっていたのですが、これっていったい何なの? 


国立天文台三鷹キャンパス ~近くにあった秘密基地(その2)

2008-08-15 02:18:00 | 日常&時間の旅





 この素晴らしいドームは、1924年に建設された「ゴーチェ子午環」です。
 天体観測の重要な仕事の一つに、子午儀&子午環による位置測定があります。「子午儀&子午環」とは、天体の正確な位置を求めたり、天文地図を作ったり、暦や標準時刻を決めるために使われていた「特殊望遠鏡」で、ニワトリさんの頭ではそれ以上の説明はできません。「かつて、グリニッジ天文台の子午環で世界時間と経度が決められていた」という説明を受けて、「だから、〈グリニッジ標準時〉と言っていたんだ」と、我点を打つのが関の山・・・。
 ここ三鷹キャンパスには、歴代使われていた子午儀&子午環が幾つも残されています。自分の全く知らない「不思議な世界」が、こんな近所にあったなんて・・・


                   

 1925年に建てられた「レプソルド子午儀室」。惑星や小惑星の赤経観測を行っていた。建築学的には柱に注目。建物内部は子午儀資料館になっていて、中央に見えるのがレプソルド子午儀。




                   

 外観も素敵だけど、内部に収められた「ゴーチェ子午環」(口径20cm)を見るや、自分が初期の「宮崎アニメ」の絵の中に入り込んような、そんな気持ちになった。三方を木に囲まれたドームは、遠くから見ると秘密基地みたいで雰囲気たっぷり。


                   

 ゴーチェ子午環の近く、森を切り開いて作ったのだろうか、アルミ色に輝く半円形のドームが、1982年に建設された自動光電子午環だ。人の目の代りに「光電マイクロメータ」という「光の目」を用いることで、位置測定の精度を飛躍的に向上させた。1回の測定で、12等級までの星や銀河の位置を正確に(0.1秒の精度・・・と言われてもよくわからない)測ることができる。ゴーチェ子午環が宮崎アニメなら、こちらは『未知との遭遇』のデビルズタワーの麓に造られた基地みたい!


 

                   

 東京の真ん中に、こんな空が広い場所があったとは・・・まわりには人家もなく、かなりの暗闇が期待できそう。それこそ、『未知との遭遇』みたいにUFOがいつ降りてきて不思議はない?
 右写真の真ん中左に小さく写っている白い小屋が地上基準点です。望遠鏡から南北80mの位置にあり、ここから自動光電子午環の基準となる光を発していました。
 午後5時近いのに日差しは強烈で、草むらを歩いていると、次々とバッタが飛び出してきました。国立天文台三鷹キャンパスでは、月に2回、50cm反射望遠鏡による観測会が行われていて、事前の申し込みで誰でも参加することができるそうです。来月あたり、申し込んでみようかな?
 この付近には、かつて本物の基地があって、痕跡を辿ることができるのですが、もう時間がありません。再度出かけることにして、帰宅の途につきました。野川を遡って「真姿の池」で給水、約50分後には自宅に到着しました。二の腕と鼻の頭がヒリヒリします。帽子をかぶっていたけど、それなりに日焼けしたみたい・・・。


 というわけで、交通費 0円、昼食費 0円、入場料 0円(井の頭自然文化園は年間パスポートを持っている)と、財布に優しい=ご近所の旅だったのですが、はな子のところで、かき氷とカルピスソーダ(計400円)を飲食し、ツシマヤマネコ(MY)バッグ&手ぬぐい(もう1種類、柄がある。保護活動費も含めて計2200円)を購入したので、いつもよりお金を使っている?
 14日は体力回復に努め、今日から出かけるつもりだけど、旅の支度はしていないし、どこに行こうか全く決まっていません。いったい、どうなることやら・・・。

 ペルセウス座流星群、ご覧になりました?
      国立天文台HPは、 → ここをクリック


国立天文台三鷹キャンパス ~近くにあった秘密基地(その1)

2008-08-14 21:17:05 | 日常&時間の旅



 15時も過ぎたので、はな子やリュウゼツランに別れを告げて、国立天文台に向かいました。ジブリの美術館前を通って大八道路を戻ること10分、「天文台北」の交差点を左折すれば正面入り口に着きます。
 向かって右側にある受付(赤頭巾ちゃんが住んでいそうな木造の建物だけど、写真を撮り忘れた)で見学申し込み用紙に記入すれば、数々の歴史的施設を見学することができます(10:00~17:00。入館は16:30まで)。


 国立天文台の前身である東京天文台が、大正3~14年(1914~1924)にかけて、それまでの麻布飯倉から現在の三鷹キャンパスに引っ越してきました。国立天文台は、目的に応じて活動の拠点を国内外においていますが(45m電波望遠鏡のある野辺山とか、標高4200mの山頂に設置した8.2mの望遠鏡「すばる」のあるハワイ島マケナウアとか)、三鷹キャンパスが心臓部に相当し、つい最近まで様々な観測も行われていました。各施設の中で一番古いものが、写真の第一赤道儀室です。ドームは1921年に建設され、1927年に設置したカール・ツァイス製の口径20cm屈折望遠鏡を用いて、何と1999年の三月まで!太陽黒点の観測を行っていました。ドームが開くと、トーチカから覗く大砲にも見えますね。


 普段はドームの中に入ることができないのですが、「夏休みスペシャルウィーク」ということで、この日はドームが開けられ、内部も特別公開していました。口径20cmの屈折式望遠鏡の赤道儀(望遠鏡が天体を追尾する仕組み)を動かすのに、おもりを動力源とした「速度調節機構付き重垂式時計駆動」を用いています。
(但し書きではチンプンカンプンだったが、係員が親切に説明してくれた)
 支柱の中に吊るされているおもりを人が最上部まで巻き上げると(係員が実際巻き上げてくれたけど、ハンドルを回すのに結構力がいる)、おもりは重力によって自然落下しますが、それを「ガバナー」と呼ばれる速度調節装置で加減して駆動部分に伝えることで、望遠鏡を一定の速度で動かすことができる仕組みとのこと。
 説明を受けても依然としてチンプンカンプンですが、使用法はわかりました。おもりを一回上まで巻き上げれば、1時間半ほど太陽や惑星など動く速さの違う星にも対応して目的の天体を自動追尾してくれる(非常にエコで)便利な装置です。


       

(左)これが、「ガバナー」と呼ばれる部分。四つの分銅が風車が回るみたいにぐるぐると水平に回転し、下のボックスでは各種の歯車が噛み合いながらゆっくりと垂直方向に回転していた。メカフェチにはたまらない?
(右)接眼レンズ部分には直視分光器(理科の授業で覚えがありません?)を取り付けて太陽を記録紙の上に映し出し(白い丸が太陽)、黒点の黒い影を上からなぞる(スケッチ観測)という単純なやり方(記録を取るのはベテラン観測員)で、60年間も黒点観測を行っていた。黒点の数は11年周期で増減し、今は最も少ない時期とのこと。自分も記録紙に写った太陽を見せてもらったが、黒点は1個もなかった。


 続いて、1926年に造られた大赤道儀室(外観は冒頭の写真。今では、天文台歴史館と呼ばれている)に向かいました。ドームの高さ19.5m、直径15mもあります。半球ドームには、屈折式では国内最大となる口径65cmの巨大な屈折式望遠鏡が、口径38cmの副望遠鏡と共に設置され(カール・ツァイス製)、1998年まで星の位置測定などを中心に天体観測を行ってきました。その大きさには、ナバロンの要塞に出てきた「列車砲」も驚いた~? 現役を引退しましたが、今でも観測可能とのこと。一度観てみたいなあ~♪




                   

(左)口径65cmの屈折式望遠鏡を仰ぎ見る。その上に付いているのが口径38cmの副望遠鏡。巨大なドームの観測窓が開いたら、さぞかし格好いいだろう。ここから夜空を眺めるイベントを開催してほしい~♪
(右)観測床は定員20名のエレベーター。望遠鏡の角度によって上下するため、いつても楽な姿勢で接眼レンズを覗くことができる。2000年に、現在のように固定されてしまった。1階に相当する床下部分(写真右)は展示室になっていて、三鷹キャンパスの四季折々の写真や、65cm望遠鏡で撮影した天体写真などが飾られている。


      

(左)アインシュタイン塔に向かう小道。武蔵野の面影を残して、情緒がある。
(右)木立の中に唐突に出現するアインシュタイン塔。塔全体が望遠鏡の筒になっている。高さ18.6m、地上5階地下1階建て。屋上のドームから入った太陽の光を垂帳に取り込んで半地下に導き、スペクトル(虹の七色)に分けて観測する。


 三鷹のアインシュタイン塔は1930年に建てられた。アインシュタイン博士が一般相対性理論を実証するためドイツのポツダムに建設したアインシュタイン塔と全く同じ構造をしているため、同じ名前で呼ばれている。うっそうとした森に佇む廃墟といった趣で、しばらくここに立っていたら、屋上のドームやバルコニーに、ヴィンセント・プライスとピーター・カッシングの姿が見え隠れした。
(実際は、さんざん蚊に刺されただけ・・・長くなってきたので、次回に続きます)


野川公園とホタルの里

2008-08-13 23:02:00 | 日常&時間の旅

 「これぞ夏!」といった感じの野川。日差しがどんなに強くても水は十分冷たく、顔を洗ったり、足を水に浸けると、気持良~い! 川辺や森を散策すれば、たくさんの生きものを観察できる。カワセミにも逢えるかも?


 「お鷹の道」の遊歩道を出て、道なりに自転車を走らせました。ぐんぐん加速して距離を稼ぎます。ほどなく小金井街道に突き当り、右折するとすぐに東八道路のバイパスに出ました。後は、多摩霊園、運転免許試験場、武蔵公園前を走り抜け、道路を跨ぐ西武多摩川線の下をくぐり抜れば、最初の目的地の野川公園に着きます。
 ここからが本番というわけで、いよいよ力強く自転車を漕ぎ出しました。ひと区画ごとにやって来る歩道と車道の段差を乗り越える際の突き上げが不快なので、あえて車道を走りました。全力疾走させると、ママチャリとは比較にならない速さで景色が後方に流れていきます。これが実に爽快だったのですが、この感覚は久しく忘れていました。反射熱のせいで下からむんむん上がってくる熱気とか、鼻を刺激する排ガスのかすかな匂いとか、噴き出してくる汗が全身を濡らす感じなども実に懐かしく、めまいがするような暑さではあるけれど、これが自分が経験してきた「夏の匂い」に違いありません(真夏の国道1、6、20、129、147、246号・・・強烈だった)。いきなり青春時代に戻ってしまったニワトリさんは、夢中でペダルを漕ぎました。


 野川は、多摩霊園に隣接する武蔵野公園の北側を東へ流れ、野川公園を経て国立天文台もあるホタルの里・ミタカ村から、深大寺&神代植物園の南側を通過したのち仙川と合わさり、二子多摩川の先で今度は多摩川と合流します。野川の北側に並行する「ハケ」と呼ばれる国分寺崖線は、大昔に多摩川が削り取ってできたもので、今は国分寺崖線から湧き出る水を水源としている野川も、洪積世の頃は堂々たる古多摩川だったと考えられています。


 カルガモとシロサギが、こんにちは~♪


 ではなくて・・・この程度の堰なら歩いて楽々越えてゆくカルガモでした。シロサギは、上流へ向かおうと堰をジャンプして越えてゆこうとする小魚を狙っています。


 野川公園から野川に沿って走ると、縄文時代の頃から人が住んでいた出山横穴墓など野川遺跡群に出るのですが、今回は行きそびれてしまいました。江戸時代になると、ハケから湧き出てくるきれいな地下水を利用したワサビ田(現在も少しあり)が多数つくられ、大沢のワサビといえば、徳川将軍にも献上するほど有名だったそうです。明治以降は養蚕で栄え、今では大沢の自然を守ろうと、ワサビ田や体験農場などが作られ、またホタルの里としても知られています。上の写真は、大沢のホタル池。ハケから湧き出た水が、本当に小さな池を作っているだけなのですが、ホタルにとっては、最高の環境を提供してくれたようです。


     

 大沢「ホタルの里」。池の横には、このように立派な階段があって、国分寺崖線を一挙に登ることができます。階段好きのニワトリさんは、早速チャレンジして大汗かきました。後で調べたところ、この階段は「コジュケイの階段」と呼ばれていて、この階段でじっとしていると、ときどき森の中をひょこひょこ歩き回るコジュケイの姿を見られるそうです。



      

 さすがの自転車も、「コジュケイの階段」は登れません。近くに急だけど自転車を押せるスロープ付きの階段があったので、そこを上ってゆくと、「コジュケイの階段」の頂上に出ました(迂回路だったんですね)。この付近の森は国立天文台の敷地になっており、三鷹の天文台は次の目的地だったのですが、時間が押してきたので帰りに寄ることにして、同時に咲いていた向日葵と朝顔(よくもったね~)の写真を撮ったところで、一気に井の頭自然文化園に向かいました。


 はな子は、いつものように水浴びしながら昼食をとり、食後のデザートに、スイカやゾウ舎の屋上に自生したドクダミを食べていました。いたって元気です(プールには入らなかったけど)。一方、ニワトリさんは少々バテていて、昨日も途中まで書いたのですが、ブログを更新することができませんでした・・・。