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牛嶋神社再拝

2009-06-22 13:53:30 | 日常&時間の旅


 当初の予定では、このあと6号線を北上し、以前自分が勤めていた会社が経営していたテニスクラブでも訪ねてみようと思ったのですが、時間が押してきたので、正月訪ねた牛嶋神社をお参りして帰宅することにしました。


全国でも数少ない三輪鳥居が美しい牛嶋神社


 角度によって「撫で牛」の表情も変わる。正月とはうって変わって静かな牛嶋神社だったが、自分がいる間に5名の人が撫でていった(内2名は力車で観光に来たお姉さん)。痛い部分を撫でると治ると言われている「撫で牛」。もしかすると、撫で牛がチビを寄越してくれたのかも?(何かにつけてこじつけて飼うことを正当化しようとしている・・・)


堀切菖蒲園

2009-06-21 23:57:47 | 日常&時間の旅


 堀切菖蒲園の花菖蒲は、古くから江戸の名所として知られていて、安藤広重や歌川豊国の錦絵にも描かれています。戦前は5つの菖蒲園があったそうですが、堀切園を東京都が買い取り(1959年)、東京都堀切菖蒲園として公開、葛飾区に移管され(1975年)に現在に至っています(入園無料)。


(左)園内には貴重な江戸種など、200種6000株の花菖蒲が植えられている。
(右)ここでは珍しい黄色の花菖蒲。近所の遊水公園でも普通に咲いていた。


 平日なのに大変混んでいた堀切菖蒲園。花菖蒲や紫陽花は、やはり雨の方が美しい。直射日光が恨めしい午後だった?


(左)堀切菖蒲園に向かう路地。紫陽花の壁が左右に広がる。ちょっとした別世界に浸れる。
(右)アオガエル君も停めさせてもらった。


紫陽花の小宇宙。最近、色々な種類の紫陽花を町中で見かけるようになった。

 (日付は昨日ですが)今朝ブログを書いていたら、チビ(まだ名前を決めていません。募集中?)が膝の上に乗ってきて、そのうち肩によじ登ったり、デスクの上で大暴れ・・・橙色の文字は、チビがキーボードの上を歩いて書いたもの。それなりに判読できたりして? ⇒ opp[[^@-


東京の橋 ~勝鬨橋(その2)【かちどき 橋の資料館】

2009-06-18 22:35:35 | 日常&時間の旅


歩道と車道を仕切るガードレール(手すり)に施された意匠


 ヘルメット姿で橋脚から出てきた人々の後をつけていく感じで?勝鬨橋を渡ると、左手に【かちどき 橋の資料館】という小さな建物が見えてきたので、中を見学することにしました。この建物は、橋を可動させるための変電所を隅田川に架かる橋の資料館として改造したものでした。そのため、当時のままの発電設備と電気設備を見学することができます。勝鬨橋のミニチュア模型もあり、橋が開閉する様子もわかります。開館日は「火・木・金」の三日間ですが、スーツ姿の人々も結構訪れたりして、都会のちょっとしたオアシスになっていました。


(左)橋の資料館(旧変電所)から見た勝鬨橋。ここだけ切り取るとヨーロッパ?
(右)資料館内部。電気設備のあるロフトから見おろす直流発電機。交流3300Vを直流に変えて(物理はパープリンなので交流と直流の違いも忘れた。乾電池を並べて実験したっけ)橋脚内のモーターに送電した。


勝鬨橋の模型。スイッチを押すと橋が眺開して船が通航してゆく。


船が通り過ぎると、橋が閉じて今度は都電が橋を渡ってゆく・・・。


別角度から。面白くて何度もスイッチを押してしまった・・・。


本物の眺開部。ここがハの字にせり上がってゆくところを見たい!


(左上)築地側から見た勝鬨橋。月島側は「かちどきばし」と、平仮名で書かれていたけど、こちらは「どき」以外は漢字で書かれていた。
(右中)この橋脚の下に橋を動かす巨大な機械(歯車とモーター)が仕込まれている。橋脚上の四つの小屋は管理棟で、運転室、見張室、宿直室などからなる。橋の重さは片側900トン+1100トンのカウンターウエイト(シーソーを思い浮かべました)。こんなに重いものを直流モーターと歯車で動かす。すごいギミックだね!
橋脚秘密基地の様子は、 ⇒ ここをクリック
(左下)築地市場でお昼を食べた。「井上」のラーメンをよく食べに来たが、今日は思い切って、マグロほほ肉ステーキ丼(1000円)を食べてみた(ステーキ丼にするか、海鮮丼にするか、すごく悩んだ)。


東京の橋 ~勝鬨橋(その1)

2009-06-17 10:10:00 | 日常&時間の旅

勝鬨橋遠景。両端部はアーチ橋で、中央部がハの字に眺開する。


 「勝鬨橋」は1933(昭和7)年に着工され、1940年に完成しました。当時は隅田川を航行する船舶が多かったので、3000トン級の船が航行できるように中央部が左右に跳ね上がる可動橋(眺開橋)を採用しました。高架橋とする案もあったらしいのですが、建設費が安上がりだということで可動橋が選ばれました。完成後は「東洋随一の可動橋」と呼ばれ、築地のシンボルとして今日まで親しまれています。


 勝鬨橋の可動(眺開)部。1953年ごろまでは、一日に5回眺開していた(一回の眺開時間は20分ほど)。以後、眺開回数が減ってゆき、上流に大型船の通航できない佃大橋が建設されたことから利用が限定され、眺開回数が年間100回を下回るようになり、交通渋滞の原因になっているとして、都電同様廃止に追い込まれる。1967年を最後に通航のための眺開は行われなくなったが、しばらくはメンテナンスのために年に一回眺開されていた。最後の眺開は1970年11月29日。1980年に電力供給もストップされ、今日に至る。2007年、永代橋&清洲橋と共に国の重要文化財に指定され、橋の再眺開を望む声も上がっているが(技術的には問題ないとされた)、復旧費用が10億円ほどかかることから、実現性は限りなく低い。


(右)勝鬨橋を月島側から見る。竣工当時から路面電車の軌道が敷設されていた。かつての東京には、路面電車の軌道が網の目のように張り巡らされていた。今も残されていれば、東京は世界屈指のエコ都市になっていただろう。
(左)アーチの部分も美しい。勝鬨橋の由来は日露戦争から。旅順攻略を祝って「勝ちどき」の渡しが造られたことによる。


     

(左)勝鬨橋の眺開部。ここがハの字形に開いていった。眺開角度は70度。眺開に要する時間は約70秒。門司港で眺開橋が稼働するのを見たが、ただそれだけで胸が躍った。
(右)橋を渡っていると、建物みたいになっているところからヘルメットをかぶった人が次々出てきた。これって?・・・実は毎週木曜日に勝鬨橋の見学会が開かれていて、往復はがきで事前に申し込むと橋脚内部を見学することができる! 今回は残念だったけど、機会があったら申し込んでみるつもり。


東京の橋 ~相生橋&春海橋

2009-06-16 23:52:00 | 日常&時間の旅




 隅田川は佃島を挟んで左右に分かれますが、「勝鬨橋」が架かっている左側(地図を見たとき)が隅田川本流になり、「相生橋&春海橋」が架かる右側は隅田川支流になります。
 水上バスは隅田川の本流を遡ります。品川の日の出桟橋を出航すると、最初に有名な「勝鬨橋」をくぐり、続いて東京で一番無粋な橋と陰口を叩かれている(東京オリンピックに合わせて突貫工事で架けられた)「佃大橋」、バブル絶頂期に造られたゴージャスな(フランスのデザイン会社の設計)「中央大橋」、「永代橋」という具合に遡っていきます。
 にわか「【橋】熱中人」に過ぎないニワトリさんは、相生橋の存在すら知らなかったのですが、「勝鬨橋」を目指して「永代橋」から隅田川沿いを下っている(つもりだった・・・)その途中に偶然!「相生橋」の前に出て、ひと目で気に入ってしまいました。
 位置関係が気になったので、たった今、地図を確認したところ、「相生橋」を渡る前に「中央大橋」も渡っていました。なるほど、思い返せば確かに、高層マンションが立ち並ぶ新しい道を走り、きれいな橋を渡ったような気がしますが、「兜」を意識した主塔と欄干の意匠に気づきもせず、単に通過してしまった模様・・・。
 ニワトリさんはその後も「迷走」を続け、「勝鬨橋」からどんどん離れていったのですが、そのおかげで、(名前だけ素晴らしい?)「春海橋」の横に架かっていた素敵な鉄道廃橋にも巡り合えたのだから、方向音痴様々といったところでしょうか? 世の中、何が幸いするか、わからないものですね。




(左)野バラと相生橋。全幅36.8mの「相生橋」は「永代橋」の25mより広く、交通量の多い清澄通りに仮橋を架けながらの工事だったので、上下7車線の全線が開通するまで11年の年月を要した。
(右)春海橋から眺めた相生橋。全長149.1m。現在の「相生橋」は四代目になる。昭和末期に計画され1999年に完成した。バブル期に計画された「中央大橋」と並んで、個性的なデザインを誇る。フランス人がデザインした斬新&ゴージャス(ライトアップも!)な「中央大橋」に対して、「相生橋」は関東大震災で焼失してしまった二代目相生橋にならって、隅田川では珍しいトラス橋とされた。


巨大なトラスが格好いい! アオガエル君と記念撮影。





 「相生橋」を後にすると、すぐに「春海橋」の案内表示が現れました。「晴海にひっかけてつけた名前だと思うけど、春の海っていいなあ。どんな橋だろう?」
 俄然興味が湧いてきたので、表示に従って左折しました。800mほどでT字路に突き当たり、左に平凡な青い橋が架かっています。「これが春海橋か。予想どおりの普通の橋だ・・・」
 そのときです。青い橋の向こう側、街路樹の梢の間から、朝錆びた古い鉄橋が見え隠れしているではありませんか! 歩道に乗り上げ、バイクから降りました。


 もう一つの「春海橋」は、東京都港湾局臨港線の鉄橋だった。消えた都電同様、今では想像することも難しいが、かつて東京都港湾局は、旧国鉄の越中島貨物駅と豊洲&晴海地区を結ぶ深川・晴海線(20.3km)と、日の出桟橋と芝浦を結ぶ日の出線(5.8km)という二つの貨物線を持っていて、一日20本近くの貨物列車(ディーゼル機関車)を運行させていた。晴海線の廃止は1989年。バブル経済が始まった頃だ。この頃に覚醒していれば、色々面白いものを見ることができたのに・・・浅草の仁丹塔、同潤会アパート、汐留や飯田橋の貨物ヤードなど、バブル期に失われたものがたくさんある。


    

静かに待っていると、幻の機関車が走ってくるかもしれない。


 春海橋のツーショット。春海橋は中央部がバイパスの高架に分かれている複雑な橋だった。このあたりは、まだまだ面白いものが出てきそうだ。


東京の橋 ~永代橋

2009-06-15 12:15:15 | 日常&時間の旅


 6月4日の木曜日、急遽休みをもらったニワトリさんは、堀切菖蒲園に菖蒲の花を見に行きました。菖蒲だから雨でも良かったのですが、雨は降らないとのことだったので、アオガエル君を出動させました。
 バイクで都内を走るのも実に久しぶりでしたが、機動力を生かして隅田川に架かる永代橋、相生橋、春海橋、勝鬨橋を眺めて(渡って)来ました。堀切菖蒲園の帰りは言問橋を通り、初詣で訪れた「牛嶋神社」に参拝して、しっかり「撫で牛」してきました(19時から懇親会があり、帰宅は午前2時に・・・)。
 東京を西から東に横断したのに、100kmそこそこしか距離を稼ぐことができませんでした。時間が押して来て、帰りに上野から高井戸まで首都高を使わなければ、もっと少なかったでしょう。東京都って意外と狭いんですね!


 永代橋の歴史は江戸時代に遡る。初代永代橋は1698年、5代将軍徳川綱吉の50歳を祝って、現在の位置よりやや北側に架けられた。隅田川に架けられた4番目の橋で、当時は一番下流にあった。全長200mもあり、今の永代橋より約15m長く、舟が通行できるように橋桁の高さが3m以上あったため、橋の上からの眺望が素晴らしく、「西に富士、北に筑波、東に上総、南に箱根」と詠われた。
 1807年、初代永代橋は祭りに訪れた人々の重みに耐えきれず、1500人が死亡する大惨事を引き起こしてしまう。事故後は新しい橋が架けられたが、1897(明治30)年に日本初の鋼鉄橋となる三代目の永代橋が、現在の位置に架けられた。7年後には路面電車も敷設されたが関東大震災で被災し、四代目となる現在の橋が、1926(大正15)年に完成した。
 永代橋は、ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋(全長325m)をモデルにしている。第二次大戦中、この橋をめぐってドイツ軍とアメリカ軍との間で大規模な攻防戦が行われた(映画『レマゲン鉄橋』でも有名)。ルーデンドルフ橋はドイツ軍の猛攻でも落ちなかったが、橋を確保したアメリカ軍の工兵隊が補強工事を行っている最中に自然落橋してしまい、残った橋桁を平和博物館として保存&公開している。永代橋を眺めてルーテンドルフ鉄道橋の在りし日の姿を思い浮かべるのも、歴史の妙かもしれない。


(左)永代橋は仕事でよく渡ったが、歩いて渡ったのはこの日が初めてだった。
(右)下流の相生橋から眺めた永代橋。夜はブルーにライトアップされる。


鋼鉄のアーチが素敵! バイクを押して歩道を渡った。



 今週から仕事がハードになり、合間を見ながら記事を書いてます。いよいよ細切れになっていくかもしれませんが、ご容赦のほどを・・・。


隅田川と支流に架かる橋

2009-05-20 23:59:50 | 日常&時間の旅


(Q)この橋の名は?

 意外と知られていないことなんだけど、東京は「水の都市」で、大小様々な川と運河に何千もの橋が架かっています。「橋熱中人」にはたまらない都市というわけですが、(春のうららの)隅田川にも、魅力的な橋がたくさん架かっていて、浜松町の日の出桟橋から水上バスに乗って浅草まで川を遡ると、勝鬨橋、佃大橋、中央大橋、永代橋、首都高9号深川線橋梁、清洲橋、新大橋、首都高6&7号線両国ジャンクション橋梁、両国橋、総武線隅田川橋梁、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋の下をくぐることができます。浅草で水上バスから降りたら、目の前の吾妻橋から優雅な東武線隅田川橋梁を眺めるのもいいし、言問橋まで足を延ばして、東京大空襲の犠牲者に哀悼を捧げることもできます。
 その日は、出だしの聖橋で少々失敗しましたが、両国から隅田川沿いを少しだけ歩いて両国橋を渡り、柳橋から浅草橋まで運河沿いを歩き、浅草橋から総武線沿いを歩いて万世橋に出て、中央通りを銀座方面に向かい、神田から先はは山手線などの在来線と東北&上越新幹線と一緒に歩き、東京駅に着きました。


総武線隅田川橋梁の下を水上バスがくぐる。


その上流は蔵前橋。三連の黄色いアーチを描く。


下流の両国橋。遠目だと平凡だけど、このようになかなか凝っている。


    

 冒頭のクイズの答え=「柳橋」。橋のたもとに本物の柳!も植わっています。柳橋は、隅田川の支流になる神田川の第一橋梁(合流する前の最も下流にある)で、江戸中期に建てられ、明治になって鋼鉄の橋に架け替えられたが、関東大震災で落ちてしまいました。復興局は、船頭たちの帰港の便を考えて、支流河口部の第一橋梁は、各々デザインを変化させる工夫をしました。柳橋は永代橋のデザインを採り入れ、昭和4(1929)年に完成。歩道の部分が、味ありますね~♪


    

(左)こんなところにかんざしが! 赤い玉が入っているのもあった。
(右)柳橋を渡る人より高いところで、ハトが威張っていた! 照明にも注目。


(左)屋形船が何隻も停まっていた。柳橋付近は、江戸時代から舟宿が繁盛していた。
(右)浅草橋も神田川に架かる橋だけど、情緒はこのとおりゼロになってしまった・・・。ここにも見附(浅草見附)があったらしい。


(左)浅草橋からは、総武線の高架下を歩いた。
(右)幻の駅「万世橋」のホームを通過する201系中央線。


万世橋と幻の万世橋駅。旧交通博物館はどうなるの?


    

 神田~東京はガード下を歩いて、昭和へタイムスリップ。左手の車道の上は東北&上越&長野新幹線の高架が走っている。


両国駅~東京駅まで歩く

2009-05-19 23:59:23 | 日常&時間の旅


 両国駅は、今でこそ総武線の各駅停車しか停まらないローカルな駅ですが、創業は明治37(1904)年と古く、かつては総武鉄道の東京側のターミナル駅でした。3年後の鉄道国有法により、総武線は「国鉄」になります。1932年には総武線隅田川橋梁が完成し、御茶ノ水駅まで延伸されて現在のように中央線と接続するようになったのですが、この時点で電化されていたのは両国~御茶ノ水間だけだったので、両国駅は今までどおりターミナル駅の役割を担うことになりました。1935年までに千葉まで電化されましたが、千葉以東へ向かう列車の多くが当駅を始発としたので、電化以後も両国駅はターミナル駅であり続けました。
 転機が訪れたのは1972年のことです。総武本線が複々線化し、東京~錦糸町間の開業に伴い快速運転が開始されるようになりました。ターミナル駅だった両国は、複々線化の工事の際に、快速線が走る地下から地上駅への連絡出口が造られましたが、急カーブ&連続勾配がネックとなって、肝心の地下ホームの建設を見送られてしまったのです。快速電車が停車しなくなったことに加えて、総武本線の東京駅乗り入れに伴い、総武本線と横須賀線を結ぶ直通電車が走るようになり、両国駅はターミナル駅としての機能を完全に失ってしまいます。10年後の1982年11月に行われたダイヤ改正により、房総方面の急行列車が全廃となり、1988年12月1日には特急列車の乗り入れも終了、ただの各駅停車停車駅になってしまいました。
 それでも、両国駅の駅舎はモダンだし、ターミナル駅だった頃の面影が残り火のように随所に見受けられ、目の前には国技館と江戸東京博物館が建っています。また両国には、「討ち入り」で有名になった吉良邸跡(自分も含めて区民は吉良寄りだけど)があり、「勝海舟」生誕の地だったり、「鬼平犯科帳」の舞台になった町としても知られていますし、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を追悼する都立慰霊塔は特異の存在で、毎年3月10日と9月1日には多くの人が追悼のためここを訪れます。
 そんなわけで、個人的には、両国駅は多くの面で「起点」や「中心」になる駅です。


(右)両国といえば大相撲! 明かりとりのある背の高い駅構内には、大相撲優勝力士の大きな額も飾られている。大相撲夏場所が国技館で開催されているので、ちょんまげ&浴衣姿の力士と何回もすれ違った(元横綱「大乃国」ともすれ違いました)。
(左)モダンな両国駅駅舎。駅前ロータリー内の駐車場と、駅舎の壁にかけられた看板が無粋だ。


 2年前には、このように各駅停車のホームから、かつて使われていたホームを見下すことができた(今回はすぐに階段を下りてしまい、まだそのまま残されているか確認していない)。人々はここから房総方面へ向かった。


 両国駅を降りたら、国技館ではなく道路を渡って隅田川に向かってしまう。この日は、総武線の隅田川橋梁を眺め、両国橋を渡って浅草橋に向かった。総武線の隅田川橋脚は、先も述べたように、総武線の御茶ノ水乗り入れのために建設された。1931年2月に着工、1932年3月に竣工した。隅田川に架かる橋は皆魅力的だが、この橋もかなりいい。

 カテゴリーだと「鉄道」だけど、歩いている時間の方が長かったし、昔を偲ぶ部分が多かったので、「時間」の旅にしました。


今年もありがとう! ~青梅市梅の公園

2009-03-21 23:59:10 | 日常&時間の旅

空に向かって枝を伸ばす紅梅。最初の一枚でした・・・


 東京では桜(ソメイヨシノ)が早くも開花しましたが、ニワトリさんの頭の中ではまだ梅の季節です。このところの強風で花が散ってしまったのではないかと心配だけど、この三連休にかなりの人々が【青梅市梅の公園】を訪ねたのではないでしょうか。今年も目と鼻を楽しませてくれて(桜は香らないもんな)ありがとさん~♪


そろそろ帰ろうかというときに撮った一枚、色とりどり、春ですね~♪


     

(左)「梅の公園」だけど、中央にすくっと立っている赤松たちも人気者です。
(右)ざるそばは食感が今いちだったけど、みたらし団子は実にウマ~い!


(左)例年だと先に見頃を迎える公園東口の梅も、今年は同時に見頃を迎えていました。
(右)野生のツツジが両脇を飾るこの階段も、大変人気があります。


(左)花が先に咲く野生のツツジ。梅とは一味違う良さがあって、実に可愛らしい~♪
(右)同じ木から黄色と橙色の花が咲くミツマタ。接ぎ木してこしらえたのかな?


(左)こうして見ると河津桜にも見えるけど、八重咲きの「梅」です。
(右)こちらは「梅」ではなくて、ミズキの仲間のサンシュ。でも、梅林に欠かせない木だと思います。


(左)最高点(「しだれの滝」の上)で尺八を聴く幸運! 演奏者のおじさんは、毎年色々な場所を訪ねて尺八を吹くのだそうです。こうした自然の中で聴くと、本当に素晴らしい音色だと思いました。ホールとかで聴くより百倍いい!
(右) 来年も、この「梅の谷」を訪ねるでしょうが・・・その前に、実がなる頃に来ても面白いかもね?

 明日(もう今日だけど)は、また雨だとか(休みなのに)。久し振りに、全部消去をしてしまいました・・・二日連続三万歩超えで、さすがに膝が少し痛んだから、明日は家でおとなしくしていようかな?


2009年の【青梅市梅の公園】

2009-03-18 08:35:00 | 日常&時間の旅



 17日(火)、今年も【青梅市梅の公園】へ行ってきました。例年だと、公園内でもタイムラグがあるのですが、暖冬のため(喜んでばかりいられません)、全体的に見ごろを迎えていました。枝垂れ梅の滝もまずまず綺麗で、野生のツツジもぼちぼち咲き始めていました。関東地方を吹き荒れた先週末の強風も、地形のせいか青梅市では吹かなかったらしく、皆元気に梅の谷を色とりどりに染めています。ここから「春の風」が我が家にも届けられるのだと、今年も「はなのまち」を口ずさみました。
「七色の谷を越えて 流れてゆく風のリボン~♪」
(クリックすると、少し大きな写真になります。枝垂れ梅の滝の落ち口から眺めた「梅の公園のほぼ全景になります。手前ではツツジが咲き始めました。枝垂れ梅は今週末がピークかな?)


部分的にはこんな感じの枝垂れ梅ですが・・・


「しだれの滝」では、まずまずの「花」しぶきをあげています。


枝垂れ梅の滝の周辺を見上げると、こんな感じです(クリックしてね)。

 昨夜は「バタン・キュ~」と寝てしまいました。その昔、漢文の授業でしょうか、「春眠暁を覚えず」という言葉だけ頭に残っているのですが、春ってほんとに眠い! さあ、仕事に行こう~、続きは明日にでも・・・。

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