ここはどこでしょう・・・と訊いても、インターネットでこのブログをご覧の方にとっては古過ぎて分からないと、僕は分かっています(笑)僕も明治や大正、戦前の大阪の写真を見せられてもピンと来ませんから。だから、「へ~、こんな光景だったんだ」と思えるギリギリの時代の写真、つまり僕が子供の頃に見た風景が、このブログでご紹介する写真の限界かと考えています。僕の友人もここを見て、懐かしいと言ってくれる時もあれば、全然記憶にないと言う時もありますから。
ここは昭和30年(1955年)の天神橋筋六丁目商店街です。天神橋駅の存在により、京都方面から大阪市内への玄関口だったのが、天六商店街でした。
その特性を背景に、昭和40年代まで発展を続けました。天六商店会の結成は昭和21年、更に昭和25年には天六専門店協同組合を結成し、昭和47年、天六商店街協同組合と改称しました。
天神橋筋商店街は、大阪府大阪市北区にあるアーケード商店街。天神橋一丁目から六丁目まで南北2.6 kmに伸びる日本一長いアーケード商店街です。天神橋筋は、大阪天満宮の門前町として発展して来ました。
アーケード商店街と言いながら、青天井の写真を掲載しましたが、現在の光景はこうなっています。
天六と言えば、今ではもうほとんどの人が知らないと思いますが、僕の中では「天六ガス爆発事故」を思い出します。何せ、その現場の復旧作業現場を、事故のすぐ後に目の当たりにしているからです。
1970年(昭和45年)4月8日17時45分頃、大阪府大阪市大淀区(現・北区)国分寺町菅栄町西交差点東側付近の大阪市営地下鉄2号線(現・Osaka Metro谷町線天神橋筋六丁目駅)建設工事現場で起こったガス爆発事故で、死者79名、重軽傷者420名にも及ぶ人的被害を出す大惨事でした。家屋の被害は全半焼が26戸、爆風を受けての損壊336戸、爆風でドアや窓ガラスが壊れた近隣の家屋は1,000戸以上にも達しました。
写真中央に散乱している板のようなものは、路面のコンクリート板です。「天神橋筋六丁目」駅の建設工事現場付近でガス漏れが発生、現場に駆け付けた大阪ガスの事故処理班の車両のうち、パトロールカーが現場でエンストを起こします。パトロールカーがエンジンを再始動するためにセルモーターを回したところ、その火花にオープンカット方式の覆工板の隙間から漏れた都市ガスが引火して炎上し、大きな火柱を上げました。パトロールカーに乗っていた大阪ガスの職員は脱出し、建設作業員らが消火器で消火しましたが、しばらくすると再び激しく燃え上がり、炎の高さは3 - 4メートルに。炎は、次第に覆工板の隙間や通気口から漏出する都市ガスに燃え移って行きました。
パトロールカーの火災は約10分間き、ガス漏れや炎上騒ぎを聞きつけて現場に集まってきた近隣の住民、通報で駆けつけた大阪ガスの職員、消防士、警察官、工事関係の建設作業員などが現場に大勢集まります。折しも夕方の帰宅ラッシュの時間帯と重なり、天神橋筋六丁目駅へ向かう通勤・通学客や、バスから降りた乗客らも現場に次々と集まって行きました。現場を警備していた警察官や消防隊は、増え続ける群衆に対して現場から退避するように呼び掛けましたが、その効果はほとんどありませんでした。
その最中の17時45分、覆工板直下の地下部分に充満していた都市ガスに、何らかの着火源が引火して大爆発。爆発は瞬時のうちに数回連続で発生し、地下鉄工事現場の道路上に直線距離で約200メートル、道路幅約10メートルの範囲(都島通の菅栄町西交差点付近〜樋之口町交差点手前)に敷設されていた約1,500枚の覆工板が爆風で捲れ上がり、現場にいた群衆や自動車は覆工板もろとも激しく吹き飛ばされました。
事故の発生が帰宅ラッシュ時に重なったこと、さらには万博の開催期間中であったことから、この事故は、大阪市全体を震撼させる都市災害となった。
今、2025年の大阪万博の会場の工事現場でガス爆発が起きたことや、今後の開催中の不安についてのニュースに触れる度に、この天六ガス爆発事故のことを思い出す関係者はどれくらいいるのだろうかと考えてしまいます。僕は戦後の日本の焼け野原には立っていませんが、このガス爆発事故現場にも行きましたし、阪神淡路大震災・東日本大震災には当事者として関わりました。吉村知事や若い第一線の方々は、歴史や過去の災害から何かを学んでいるのでしょうか?