このサインは、悪役レスラーとして1時代を築いた、上田馬之助さんからもらったもの。日本プロレス時代のもので、僕がまだ小学生。親切にサインをしてくれました。「まだら狼」なんて言われる何年も前のことです。
大相撲から日本プロレスに入門。ダブル・リストロックを得意技とし、当時の上田の試合には派手さがなかったため、観客が眠ってしまう事がしばしばあり、そのために眠狂四郎というあだ名をつけられていました。しかし日本プロレス崩壊後、前髪を金色に染め竹刀を振り回す「まだら狼」へと変身(後に髪全部を染め、「金狼」と呼ばれるようになる)、ヒールとして凶悪ファイトに徹するようになり、日本マットでは初の本格日本人ヒールとして注目を集めました。
1977年1月に新日本プロレスへ参戦、タイガー・ジェット・シンと凶悪タッグを結成して北米タッグ王座を獲得し、一躍トップヒールとなった。その後、シンとは仲間割れもあったが、長く悪の名コンビとして日本マットを血で染め続けた。
1996年3月に東北自動車道で、西濃運輸との不慮の交通事故に遭遇。フロントガラスを突き破り、車外に投げ出されアスファルトに叩きつけられ、普通の人なら即死だっただろうと言われる大事故だったが、レスラーとして体を鍛えていた事に加え、叩きつけられる直前、無意識に受身をとっていた事で一命を取り留めた。本人は車が衝突した瞬間以降の事は覚えていないらしい。
その事故により脊椎損傷の大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされた。1998年4月16日に上田がリハビリ中の熊本県で「力道山OB会」主催の引退記念大会が開かれ、車椅子姿でファンの前に現れ喜ばせた。その後、妻の故郷の大分県臼杵市へ移り、地元でプロレス興行が行われると夫婦で会場に激励に行ったり障害児施設を訪問するなど、妻と二人三脚の生活を送っている。
常に竹刀を片手にし、レスラー人生を悪役で貫いたが、素顔は以下のエピソードにも見られるように非常に真面目で、周囲の人間を大事にする人物であった。また、高いプロ意識の持ち主であったことが言動の随所に表れている。
1.ライバルを問われると「お客さん」と答えた。観客の目を意識できないものは評価されないプロレスの世界において、まったくの正論である。
2.場外乱闘時に逃げ遅れた観客の老婆を見て乱闘をやめたり、タイガー・ジェット・シンが暴れている時に周囲の(無関係の)一般人が近づくのを必死になって制止したことがある。
3.徹底したヒールキャラを通していたため、親類の幼い子供から「おじちゃんは家に来ないで!」と言われたことがあるらしい。プロとしてヒールを演じていた上田は後に「あれが精神的に一番辛かった」と述べたという。しかし、現在行っている施設慰問は現役当時から続けているもので、訪問先では「上田のおじちゃんが来た!」と子供たちに大喜びで迎えられていたという。施設慰問のことを取材したマスコミが「このことを記事にしてもいいか?」と聞いたら上田は「そんなことしたら俺の悪役のイメージが壊れるからやめてくれ」と断った。
4.茅ヶ崎のダウン症の子供たち向けに焼き物を作ることを通して、コミュニケーション能力を教えている施設の遠足会には「荷物持ちのおじちゃん」として参加。川原でのバーベキュー等でも活躍。
5.引退のきっかけとなった交通事故で、運転していたIWAジャパンの営業部員は死亡した。その話を聞き「俺が死ねばよかった。なんで人生まだこれからの若いやつが死ななきゃならないんだ」と号泣した。
6.交通事故の直後は首から下が動かない状態であったが、リハビリを経て、プロレス会場に車イスで来場できるほどまで回復した。また、往年のファンのために今尚、来場時にはトレードマークの金髪に染めている。
7.深夜、会場からの出待ちをしていた中学生に、隠し撮りをされたことがあった。気付いた上田は「こら!」と叱ったが、少年の自宅に「必ず息子さんをお返しします」と電話した上で、「写真を撮りたいときはな、まず相手の人にお願いするんだぞ」と優しく諭し、その場で書いたサインを持たせて家まで送り届けた。
8.日本プロレス末期に、不透明な経理に不満を抱いていた馬場・猪木ら選手会一同は、一部幹部の退陣を要求しようとしていた。もし要求が受け入れられない場合は、選手一同が退団するという嘆願書に全員がサインをしていた。ところが、仲間だと思っていた上田が「猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている」と幹部に密告したため、慌てた幹部連中の懐柔工作によって選手達は次々と寝返り、猪木のみが孤立し選手会を除名され、日本プロレスから永久追放される事件が起きた。
上田は「実はあの事件で最初に裏切り首脳陣に密告を行ったのは馬場であるが、当時の社内の状況ではとてもそのことを言える状態ではなく、自分が罪を被らざるを得なかった」と語っている。上田は「証拠となるメモも残っている」と語っており、これが事実なら定説が覆ることになるが、今となっては馬場を含め当時の関係者の多くが亡くなっていて事実関係を検証するのは困難であり、真相は藪の中というのが現状である。
いずれにせよ、この事件が発端となり馬場と猪木の決裂は決定的なものとなり、その後日本プロレスは崩壊し「全日本プロレス」と「新日本プロレス」が誕生した。馬場は、この事件についてその後一切語っていない。
上田は引退興行の際「猪木さんにお詫びしたい」と語り、後に和解したものの、猪木は「追放された事実よりも仲間だと思っていた上田の裏切りに深く傷ついた」と語っている。
山本小鉄は「こんなことあろうがなかろうが、馬場と猪木は遅かれ早かれ決別していた」と語っている。また1992年に大熊元司が没した際、上田に不信感を持つ馬場は、大熊の訃報すら上田に伝えなかったため、「祝儀不祝儀の付き合いも断つのか」と涙ながらに激怒した。