しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <慰められる>

2021-12-04 | エステル記

「テトスが来たことだけでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められました。私を慕うあなたがたの思い、あなたがたの深い悲しみ、私に対する熱意を知らされて、私はますます喜びにあふれました。」(Ⅱコリント7:7新改訳)

牧会者としてのパウロの真情を吐露した文章で、胸が熱くなる。▼コリント教会のある人たちが道徳上の罪を犯し、心配したパウロはテトスを派遣した。ところが信徒たちは心から罪を悔い改め、テトスを真心から迎え、パウロをもこの上なく慕って会いたがっていることがわかったのだ。この知らせをテトスから受けたパウロは、心配が杞憂(きゆう)に終わったことに感謝し、喜びにあふれながら本書を認めた(したためた)のである。救われ、キリストのからだである教会に加えられながら、誘惑に負けて罪を犯してしまう、それがどんなに聖霊を悲しませることか、使徒の気持ちが痛いほどわかるではないか。▼教会存立の目的は、肉と霊の汚れから全くきよめられ、再臨の日に恐れなく神の前に立たせていただくことにある(本章7:1)。この目標から外れたなら、悪魔の餌食になる以外、道はない。主はキリスト者たちがあらゆる罪から守られるよう、天から御聖霊を送って下さり、その方が一人一人に内住し、導いていて下さる。もし私たちが御霊に拠り頼み、日々一緒に歩むなら、このお方は「やすやすと」私たちに勝利の道を歩ませてくださるであろう。なぜなら、あらゆる知恵と力と助け、教え、励まし、援助その他すべてのものをお持ちであり、惜しむことなくキリスト者にそれを与えるのを喜びとしておられる方だからである。▼にもかかわらず、そのことを無視し、誘惑に乗って悪魔の命じるままに行くとすれば、こんな矛盾はなく、御霊に大きな憂いと悲しみを与えてしまうのは明白だ。パウロのコリント教会に対する悲しみは、実はパウロでなく、御聖霊の悲しみなのであった。そして悔い改めた信者たちの様子を聞き、わがことのように喜び、慰められたパウロの心も、じつは御聖霊の心そのものだったのである。