「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である。」(マタイ1:22,23新改訳)
人類の始祖アダムとエバは神に創造され、エデンの園に置かれた。そこはあらゆる果樹が生い茂り、ふたりは何の心配もなく幸せに暮らしていた。その上、創造の神と恐れなくことばを交わし、御顔を見ることができたのである。▼だがマタイ福音書が記すインマヌエル(神が私たちとともにおられる)という状態だったかというと、なにかそうではないような気がする。たしかに神はアダムたちと共におられた。しかし彼らは蛇に誘惑され、罪を犯し、神のことばを破ったのであった。そこから始まった人類の堕罪と暗黒の歴史、今なおそれは続き、いつ果てるとも知らない。▼にもかかわらず、やがて時が満ち、神は暗黒の中に御自身のひとり子をお送りになった。その御方は人間となって私たちの世界に来られた。いうまでもなくクリスマスである。人は肉体にあって罪を犯し、肉体にあってその実を刈り取り、苦しむものとなった。したがって、神がともにおられるということは、人間存在のすべて、肉体をも含めた全存在において「ともにおられる」ということが実現すべきことを要求する。これがひとり子が受肉された最大の理由である。ヨハネの表現を借りれば、「ことばは人となって(肉となって)、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14同)ということになる。▼人は暗闇の存在者に支配された結果、心とからだにおいて測り知れない罪深さを持って生きるものとされてしまった。だからその闇と暗黒の中に神がお出でくださり、ご自身の臨在によって満たしてくださらなければ、救われたことにはならない。それが受肉降誕の必然性であった。キリストは天におられたままではなかった。私たちのそばに来られたのでもなかった。じつに私たちの全人格における暗黒と罪深さ、反逆性のただ中に、身をおどらせるようにして落ちて来られたのであった。その証拠こそ、ナザレのイエスの御姿であり、ゴルゴタの十字架である。それ以外にどうしてインマヌエルがあろうか。どうして闇が消滅し、光が満ちた、という出来事が生起し得ようか。2021年クリスマス、私たちお互いは、闇と暗黒に満ちた肉の真中にお出でくださったひとり子を凝視したい、そして驚きと讃嘆に呑まれ、礼拝者の謙遜へと変えられた自らをそこに見出したい。