しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 Ⅲヨハネ <ディオテレペス>

2020-03-13 | 第三ヨハネ

つくし

「ですから、私が行ったなら、彼のしている行為を指摘するつもりです。彼は意地悪なことばで私たちをののしっています。それでも満足せず、兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。」(10新改訳)

一世紀も終わり頃になると、教会のなかに様々な主張をする人たちが現れ、福音の正しさをめぐって戦いの始まっていたことが、ヨハネの手紙から推察できる。▼しかしその戦いを通して、本当に霊感された書物が注意深く選ばれ、保存され、今日の新約聖書が成立するに至った。御聖霊が人々の心に正典を識別できる力を与えた結果、どんなにもっともらしい内容であっても、霊感されていないと認められたものは、決して新約聖書に入れられなかった。▼ヨハネ黙示録は一世紀末に記されたといわれるので、神は以後二千年に及ぶ教会を、この正典によって守り支えて来られたことになる。これは人類歴史を支配統御されるお方の絶大な知恵と御配慮によるものであった。そして神の支配統御は、これからも御再臨の日まで続く。◆さて、本書でヨハネは「かしらになりたがっているディオテレペス」(9)という表現を用いた。そもそもキリスト教会は、御霊によって新しく生まれ変わった信仰者により形成されるはずのものである。ところが実態はそうでなく、「かしらになりたがる性質」を心に温存したままの信仰者がおり、これが問題なのである。要するにこれは神の地位をねらった悪魔の性質で腐敗性の中心をなし、「毒麦」となって教会内に混在している。十二弟子たちもイエスに従いながらこの性質に支配され、主の十字架直前まで「だれがいちばん偉いか」と争っていた。ペテロが「下がれ、サタン」(マタイ16:23同)と一喝されたのもうなずける。◆しかし神は深い御計画と配慮から、あえて教会を良い麦と毒麦が混在したままの畑として御再臨の時まで保存しておられる。良い麦100%の畑だったらどんなに幸せか、とつくづく思うのだが、そうでないところに主の御摂理の深さを私たちは思わなければならないのも事実なのだ。御霊とともに歩むキリスト者は、争いの波にもまれ、自らがほんとうに謙遜であるかどうか、また、そのことを心から喜びとできるかどうかをテストされて行く。ディオテレペスに軽んじられ、無視され、時にはののしられ、つらく悲しい信仰生活を送らなければならないかもしれぬ。◆だがそこを通るとき、子羊の本性である謙遜が、絵に描いたモチから聖霊による徳性となってその人に受肉していくのだ。かくて、みにくいアヒルの子といやしめられた者が、かの日、主の御前で純白のハクチョウと変貌するであろう。そこに私たちの目標と希望を置かせていただきたい、と願う。