しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 ルツ記2章 <ボアズの畑で>

2020-03-18 | ルツ記

ミモザ

「彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。『どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。』」(ルツ記2:10新改訳)

ルツ記を読む私たちが、いつもすがすがしい気持ちになるのは、登場人物の心に流れる謙遜の清流を感じるからだと思う。特にそれが顕著なのはモアブの女性ルツである。「私はよそ者ですのに」とか、「私はあなたのはしための一人にも及びませんのに」(13同)と言った言葉には少しの嫌味もなく、素直でありのままのおどろきが現れている。なんと美しい心根であろう。▼ルツは福音により、御国の民として天の名簿に加えられた異邦人キリスト者のひな型といわれる。パウロが、「この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ1:27同)と記すとおりだ。私たちは内なるキリストの霊により、ルツが抱いた信仰と謙遜にあふれ、神の選びにふさわしい生涯を送る者となりたい。◆雅歌には、花婿のはなよめに対する愛の告白が、「あなたは私の心を奪った。私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。ただ一度のまなざしと、首飾りのただ一つの宝石で」(雅歌4:9同)と記されている。花婿をイエス・キリストと捉えれば、花嫁はキリスト者となる。とすれば、このおどろくべき告白ははなよめのどこを見て発せられたのであろうか。私はその鍵こそルツの謙遜にあると思う。イスラエルが軽蔑する民、モアブ人のルツ、しかし彼女の内にある謙遜と誠実、イスラエル人にも見られない美しさをボアズは見てとったのであった。◆キリストの御本質は御父への全き謙遜と従順、誠実で貫かれている。人となることにより、それが見えるかたちで私たちの前に現された。その徳性が聖霊の内住によって私たちキリストの性質となり、輝いているのである。イエス・キリストはそこに自らの伴侶としての美をおぼえておられるといえよう。私たちの内に主に向かう純愛、純真、まじりなき心があるとすれば、それは十字架の血潮により、新しく創造されたもので、生まれつきの性質では決してない。永遠の昔から神がそう御計画なさり、時満ちたときにひとりひとりのうちに与えられたものなのである。いかに驚嘆すべき選びであり恩寵であろうか。