【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「彼女が消えた浜辺」

2010-11-16 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

ペルシャ猫を誰も知らない」に続けてこの映画「彼女が消えた浜辺」の話なんて、なんかイラン映画づいてる?
偶然よ、偶然。
まあ、この映画は、偶然イラン映画だったみたいなもんだもんな。
どういう意味?
『海辺のコテージにバカンスにやってきた男女の中から突如消えた女性をめぐるミステリー』といえばイランじゃなくても成り立つ企画だ。「ペルシャ猫を誰も知らない」みたに、イランという国を抜きには考えられないような題材じゃない。
イラン映画だからって、なんでもかんでも政治性を帯びなくちゃいけないってことはないでしょう。いろんな映画があって当然よ。
そう、そう。「ペルシャ猫を誰も知らない」に出てきた若者たちが我々と同じように音楽を楽しんでいたように、イランではこういうふつうに上質なミステリー映画だってつくられているんだ、っていう事実は、逆説的に、おかしいのはイランの体制だけであって、そこに暮らす人々はなんら他の国の人々と変わらないんだっていうことを主張している。
でも、イランならではの描写もあるわよ。
例えば?
例えば、カスピ海。海辺のコテージというけれど、正確にはあれは海じゃなくて、湖。開かれた大海原ではなく閉ざされた水辺。リゾートにしては寒々とした光景はやはり、どこかしら不穏な空気が流れている。
まあ、あれは題材上、ああいう撮り方をしたともいえる。松本清張のミステリーに出てくる日本海の風景のようでもあった。
彼らがここにやってきた理由は?
たしかに、彼らがここにやってきた本当の理由には、我々日本人にはちょっと理解しきれない部分もある。
男女に出会いの場を提供するっていうと、ごくありふれた理由だけど、その背後にはちょっとばかし複雑な理由がからんでくる。そこが、日本とは違うイランという国の事情のような気がしたんだけど。
でも、これは体制の違いというよりは、文化の違いかもしれないな。
古い文化が残っているということ?
古いか新しいかはわからないけどね。
消えた彼女をめぐって残された人たちが右往左往する姿は、たとえばニキータ・ミハルコフの「機械仕掛けのピアノのための未完成の戯曲」を思い出させるようなドタバタした趣がある。
同じカスピ海沿岸の国の映画とはいえ、また飛躍した例えだなあ。
でも、「機械仕掛けのピアノのための未完成の戯曲」からユーモアを取り去ってミステリーの要素を加えるとこんな群像劇になるのかもしれないわよ。
まあ、主眼は、なぜ彼女は消えたのか、ではなく、消えたあとに取り残された人々が繰り広げる人間模様だからな。
人間模様というのは、いずこの国も変わらないのよ。
案外いちばんイランらしいのは、主役の女優のなんともエキゾチックな顔立ちだったかもしれないな。
途中ではかなく消えちゃうけどね。




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