【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「ペルシャ猫を誰も知らない」

2010-11-13 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

こんな映画、誰も知らない。
・・・って、切って捨てるには惜しい問題作。
音楽活動を厳しく規制されたイランのミュージシャンたちの物語。
それを抑圧された者の暗い視点から描くのではなく、それでもどっこい、こんな楽しいものはやめられないっていうポジティブな視点から描いているのが好ましい。
でも、イランってすごい国よね。政治性のある音楽だけでなく、単なる楽しみでやっている音楽まで、ありとあらゆる音楽を規制しようとしているんだから。
そんな自然に体のうちからあふれでてくるものまで規制しようなんて無茶だろうというのがこの映画の姿勢。
だから、ここに出てくるミュージシャンたちは、体制に反発して怒りを音楽で表現しようというメッセージを持つ人々と言うより、音楽くらいやらせてよっていう純粋な欲望から当局の網をかいくぐる人々。
次から次に繰り出されてくるのは、そういう人たちが閉ざされた状況の中で音楽を奏でる姿なんだけど、演奏しているときの愉悦に満ちた表情は、我々抑圧を知らない国の人間とまったく変わりがない。
でも、やっぱりこの国じゃあ音楽は続けられないと脱出を試るひと組のミュージシャンが物語を引っ張る。
残念ながらこの物語のほうは、それほど新鮮に映らない。柱になる物語がいまひとつ弾けないのが惜しい。半分、音楽を聴かせるだけのミュージック・クリップになりかけてる。
イランっていう国情を抜きにすれば、たしかに映画というよりはプロモーション・ビデオに近い感触もあるわね。
それだけになお、イランと言う特別な国のことを抜きには語れない。
ここにもふつうの国々と同じようにふつうに音楽を愛する人たちがいるんだぞ、っていう出張。
聞こえてくる音楽のほうは、伝統音楽からラップまで、まあバラエティに富んでいること。
「酔っぱらった馬の時間」や「亀も空を飛ぶ」のような厳しい映画をつくってきたバフマン・ゴバディ監督にしては軽快に撮られた印象も受けるけど、当局の目をかいくぐりながらこれだけ軽快な映画をつくるっていうのも、またたいへんなことよね。
そのこと自体が、体制に対する強い訴えになっている。
お前たちの思い通りにはいかないぞ、っていうエネルギーが満ちている。
そういう意味では、主人公たちには軽々と国境を越えてほしかった気もするけどな。
そのぶん、映画が国境を越えて、いまこうして私たちが観てる。
ペルシャ猫を俺たちは知ってるぞ。
よーし!