【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「14歳」:茅場町バス停付近の会話

2007-05-24 | ★東20系統(東京駅~錦糸町駅)

ずいぶんしゃれた建物だな。
トイレよ。
うそ!
公衆トイレよ。
へー、やっぱり都会のトイレは違うねえ。俺のトイレの思い出といったら、級友を押し込んだ中学校の小汚いトイレくらいなもんだもんな。
あなた、いじめっ子だったの?
いや、ただのいたずら坊主だ。映画の「14歳」に出てくる子どもたちみたいな陰湿なことはしたことないぜ。
うしろから級友をいきなりなぐるとか、ナイフで傷つけるとか、言葉の暴力を投げかけるとか?
ないね。あんな陰にこもった青春、なかったね。
たしかに映画の「14歳」の子どもたちは、笑顔もいっさいなく、言動も行動もやたら陰にこもってるわよね。今の14歳ってこんなにいつも陰隠滅滅としてるのかしら。
というか、学校とか親とかがあんな感じじゃあ、子どもだってやってられないよな、って気分になる映画ではあった。おとなたちに理解があるとかないとかじゃなく、たたずまいがイライラして、理由もなくキレたくなってくるという気分・・・。
何かやってられない具体的なできごとがあるっていうんじゃなくて、彼らを取り巻く世界の空気がやってられない感じなのよね。
そうそう、その空気が圧倒的に迫ってきて、物語で見せるというのでも、演技で見せるというのでも、映像で見せるというのでもなく、空気感で見せるという、きわめて珍しいタイプの映画だった。
強いて似ているタイプの映画をあげるとすれば、諏訪敦彦の「M/OTHER」みたいな感じかしら。
ああ、感触は近いかもしれないな。アップとか寄りサイズとかカメラのゆれが多いせいかもしれないが、かすかな息づかいとかわずかな気持ちの動きとかが肌に伝わってくる。
自分が14歳のときに学校で教師を切りつけた女性が26歳になって14歳の子どもたちの教師になっているという、かなり頭で考えたような設定なんだけど、画面に映っている女性は妙にリアルなのよね。映画女優という雰囲気が全然しない。
もうひとり、彼女の同級生の男が出てくるんだが、これもまた妙にリアルだと思ったら、なんと、廣末哲万監督が主演を兼ねていた。
この二人の男女と14歳の子どもたちを中心に話が進んでいくんだけど、起承転結というのでもなく、かといって点描の連続というのでもなく、何が起きても淡々と時間が過ぎて行く。
二人の男女が「14歳のときの自分を思い出せるか」という会話を交わすシーンがあるんだが、たしかに自分が14歳のときに何を考えていたかなんてさっぱり思い出せないもんなあ・・・。
教師になった女性が「あの14歳の中にあなたはいないわよ」って言われるシーンもあったわ。
つまり、おとなが「自分もかつては14歳だった」と言ったところで、いまの14歳を生きている子どもたちには何の説得力にもならない。
ひとことで言うと、わかった気になるな、っていうことなのかしら。
14歳と言えば子どもでもないし、おとなでもない。過ぎてしまった人間にとっては、別の生き物と思ったほうがいいってことかな。コミュニケーション不可能とは言わないが、そういう前提で対応しなきゃちゃんとした反応は返ってこないぞと。
それを物語としてではなく、空気感として見せていく。
実はラスト近くで男のほうが結論めいたセリフを言うんだが、この映画にはああいう結論めいた言葉はないほうがよかったかもしれないな。かっちりしたドラマとはつくりが違うんだから。
でも、校舎も最近はこの公衆トイレみたいにどんどんきれいになっていくのに、中学生の心はこんなに荒んでいるのかと思うと、なんだかつらいわね。
正直、汚いトイレの学校で遊んでたころが懐かしいよ。
そういう懐古趣味がいけないって言ってるのよ、この映画は。
はい、トイレに入って考えてみます。


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茅場町バス停



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