こういう自動車販売会社もいまは大変よねえ。
とくにアメリカのビッグスリーとかは大変らしいぞ。
アメリカも自分の国が火の車なんだから、よその国で嘘のつきあいなんてしている場合じゃないわよね。
そういう目で観てたのか、中東でのアメリカCIAの暗躍を描いた「ワールド・オブ・ライズ」を。
うん。まったく、こんな嘘をつきあってまで、よその国でよけいなことする必要ないんじゃない、っていうのが私の素朴な感想ね。
だけどこの映画、戦争の意義について語る映画じゃないぜ。
単なる娯楽映画だっていうのは私だってわかってるわよ。でも、中東には、もっと複雑怪奇な嘘がいっぱい渦巻いているはずなのに、この時代、この程度の嘘のつき合いじゃあお人よしって言われてもしょうがないんじゃないの?
いくら娯楽映画とはいえ、リアルな状況を背景にしているんだから、もっとリアルな感覚があってもよかったんじゃないかってことか。
宇宙とか古代とか荒唐無稽な世界を題材にしているわけじゃなく、いまここにある薄気味悪い世界を題材にしているんだから、もう少し歪んだ匂いがしてもいいんじゃないかと思うわけよ。
たしかに、中東の駆け引きはあんなわかりやすいもんじゃないだろうって思うもんな。
監督がリドリー・スコットだから観ていてあきないけど、ブライアン・デ・パルマの「リダクテッド」とか観たあとだと、中東の闇はこんなもんじゃないぞ、ってどうしても思っちゃうのよねえ。
娯楽映画を社会派映画の「リダクテッド」と比べるのもどうかとは思うけど、二つの映画の共通点といえば、みんな、映像の中で戦争をしているってところかな。
そうね。「リダクテッド」がホームビデオとかテレビのインタビュー映像とかインターネット映像とか、すべて映像を通して物語を語っていったのにちょっとイライラしたけど、「ワールド・オブ・ライズ」で指揮官たちがみんな現地ではなく、大画面映像で戦闘の模様を眺めているのを観るにつけ、最近の戦争はそういう肌感覚のないところで進んでいくんだなあ、ブライアン・デ・パルマは全編を通してそれを訴えたかったんだなあ、っていまごろ見直しちゃったわ。
「ワールド・オブ・ライズ」もそこまでのギミックはないけど、とにかく指揮官たちは映像の中の戦争を観て傍観者のように判断する。実はそれがいちばん恐かった。
傍観者といえば、CIAの上司のラッセル・クロウなんて、アメリカ本土で子どもの学校への送り迎えとかしながら、中東で戦っている部下のデカプリオに携帯で指示するんだから、ひどいもんよね。
異常と日常の垣根を飛び越えてしまう。あきれたもんだ。
でも、リドリー・スコットのめざすのは娯楽映画だから、結局は中途半端なロマンスへ話を収斂させてしまう。
いけないか?
いけないわよ、中途半端は。それこそ、映画自体が嘘っぽく、文字通り「ワールド・オブ・ライズ」な映画に見えてきちゃうじゃない。
わかった、こんどリドリー・スコットに会ったら言っとく。
って、そんなチャンスあるの?
ないけど。
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