【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「リダクテッド 真実の価値」:船堀一丁目バス停付近の会話

2008-11-05 | ★錦25系統(葛西駅~錦糸町駅)

「この先、大型車通れません」なんて検問所でもあるのかな。
そんな、サマワじゃあるまいし。
お、お前の口からサマワなんていう地名が出るとは思わなかった。浦和の間違いじゃないだろうな。
サマワよ、イラクのサマワ。アメリカ軍が治安維持のために検問を行ったているサマワ。
おいおい、どうしたんだ?熱でもあるのか、いきなりそんな安藤優子みたいなジャーナリスティックな顔になっちゃって。悪い夢でも見たのか。
「リダクテッド 真実の価値」を観たのよ。
ああ、サマワで検問を行っていたアメリカ軍があやまってイラクの民間人を射殺したことから起きる、悲劇の連鎖の映画か。
検問で停まらなかったイラク人が悪いのか、杓子定規に銃を撃ったアメリカ軍が悪いのか。やがてお互いの報復合戦が始まって、民間人が無残な形で犠牲になる。
報復合戦っていったって、堂々と戦うんじゃなくて、陰惨な殺人の連鎖。
しまいには、年端もいかない女の子まで犠牲になる。
目には目を、ってやつなんだけど、国同士のいさかいでやってることがいつの間にか人間同士の復讐心をあおる結果になっていくっていうのは、イラク戦争に限らず戦争というものについて回る宿命で、観ていて気が滅入っちゃうよな。
いくら戦争だからって、そこまでやっちゃあいけないだろうとは思うんだけど、それも安全な場所にいる者の思考かもしれないって、ふと考えちゃったりする。
そういう戦場の実態をこの映画は、戦士が撮ったビデオ映像とか、ジャーナリストが撮った映像とか、地元のテレビ局、インターネットの映像などという形で差し出してくる。
ドラマというより、擬似ドキュメンタリーってやつよね。勇壮なところは、まったくなくて、陰惨そのもの。戦闘体験映画じゃなくて、戦場体験映画。
この映画の監督がブライアン・デ・パルマだっていうんだから驚くな。
どうして?
だって、「ファントム・オブ・パラダイス」とか「キャリー」とか、自分の趣味のまんま、好き放題やってた監督だぜ。
「殺しのドレス」とか「フューリー」とか?
そうそう。世の中なんてものに目もくれず、好きなものだけつくってきた監督がこんな社会派映画をつくるなんて。
テクニック派の監督が社会派映画をつくるとこうなるってことなんじゃないの?
それにしても、洗練されすぎてる。思いが先走って技術がついていかなかった初期のころの監督作が懐かしい。
でも、「アンタッチャブル」のあたりからすでに巨匠の風格が出てきてたけど。
ああ、ブライアン・デ・パルマって、俺たちの手の届かない堂々たる巨匠になっちゃったんだなあと思ったら、またこんなゲリラっぽい映画をつくったりして、でも洗練度は増して、まったく不思議な映画監督だな。
でも、イラクを題材にした映画をつくるのってアメリカではある種タブーになっているのかな。巨匠のブライアン・デ・パルマでさえ、こんな形でしか映画にできなかったんだから。
ああ、同じような戦争映画でも、明らかにベトナム戦争のころとは違うものがある。
「プラトーン」とか「フルメタル・ジャケット」に比べても、イラク戦争の映画ってどれも、映画としての興奮がないというか、一回り小さくなった感じがする。
一方で鬱々とした感触がさらに進んでいる。
ブライアン・デ・パルマ自身ベトナム戦争のときに起きた同じようなできごとを、すでに「カジュアリティーズ」という映画にしているんだけど、このころのほうがまだほのかに明るい部分があったわよね。
こういう悲惨な事実を告発することによって社会が変わるかもしれないという希望があったんじゃないか。それに比べると「リダクテッド」には絶望感が漂うばかり。
イラクから帰って来た兵士に「よくやった」と声をかけるくらいしか、もうできない。
ほかに言いようがないじゃないか。
なんか、行き着くとこまで行っちゃったような虚しさ。
まさに「この先、通れません」だな。



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ふたりが乗ったのは、都バス<錦25系統>
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