須賀敦子(1929‐1998)の全集には手紙や日記も収録されているが、全集刊行後に出てきた手紙55通があり、それは「須賀敦子の手紙」として出版されている。手紙のあて先は日本文学研究者のアメリカ人、ジョエル・コーン(1949‐)とその妻の日本人、スマ・コーン(1942‐)。手紙が書かれた時期は、夫のペッピーノが亡くなって日本に帰り、しばらくたった時期の1975年から、須賀敦子が亡くなる前年の1997年まで。
本書にはそれらの手紙が収められているが、驚いたことには、便箋、絵葉書、原稿用紙などに書かれた手紙が、封筒をふくめて、すべて写真で掲載されている。須賀敦子が書いた手紙を、手書きのまま読めることは、興味が尽きない。丸みを帯びた字体から、須賀敦子の人柄が伝わってくるから。
須賀敦子の妹の北村良子氏が、「姉があんなにのびのびと書いている手紙は読んだことがありませんでした。構えないで書いていて、しかも姉らしさが全体にあふれていて。」と語っている通りの文面。
意外な事実がいくつかあった。一つは、須賀敦子が恋をしたらしいこと。1977年5月17日の手紙には、「もう私の恋は終わりました。その人をみてもなんでもなくなってしまった。これでイチ上り。一寸淋しいきもちだけどしずかで明るいかんじも戻ってきました。」というくだりがある。
相手はだれだろう、という気持ちを抑えきれないが、ともかく1977年というと、ペッピーノが亡くなってから10年、須賀敦子はまだ48歳なので、恋があってもおかしくない。
もう一つは、コーン夫妻を訪ねて、1983年、84年、87年と3回ボストンへ旅行し(83年のときはニューヨークも訪れた)、また89年にはハワイへ旅行していること。須賀敦子とアメリカとはイメージが結びつかないが、アメリカも気に入ったらしい。1984年1月5日の手紙には「アメリカを一寸知ったことは、本当に大きなショックでした。」とある。
巻末でコーン夫妻が、須賀敦子の「おすまさんのこと」というエッセイに触れて、「須賀さんは上手にフィクションを入れて書くところがありますから、そう書いたんでしょう。」と語っている箇所がある。
その箇所は、須賀敦子自身、記憶違いの可能性を考えて、慎重な書き方をしているようだが、別のエッセイでは一部「フィクション」の可能性はあるのだろうか。須賀敦子の筆致の鮮やかさゆえに、妙に気になった。
本書にはそれらの手紙が収められているが、驚いたことには、便箋、絵葉書、原稿用紙などに書かれた手紙が、封筒をふくめて、すべて写真で掲載されている。須賀敦子が書いた手紙を、手書きのまま読めることは、興味が尽きない。丸みを帯びた字体から、須賀敦子の人柄が伝わってくるから。
須賀敦子の妹の北村良子氏が、「姉があんなにのびのびと書いている手紙は読んだことがありませんでした。構えないで書いていて、しかも姉らしさが全体にあふれていて。」と語っている通りの文面。
意外な事実がいくつかあった。一つは、須賀敦子が恋をしたらしいこと。1977年5月17日の手紙には、「もう私の恋は終わりました。その人をみてもなんでもなくなってしまった。これでイチ上り。一寸淋しいきもちだけどしずかで明るいかんじも戻ってきました。」というくだりがある。
相手はだれだろう、という気持ちを抑えきれないが、ともかく1977年というと、ペッピーノが亡くなってから10年、須賀敦子はまだ48歳なので、恋があってもおかしくない。
もう一つは、コーン夫妻を訪ねて、1983年、84年、87年と3回ボストンへ旅行し(83年のときはニューヨークも訪れた)、また89年にはハワイへ旅行していること。須賀敦子とアメリカとはイメージが結びつかないが、アメリカも気に入ったらしい。1984年1月5日の手紙には「アメリカを一寸知ったことは、本当に大きなショックでした。」とある。
巻末でコーン夫妻が、須賀敦子の「おすまさんのこと」というエッセイに触れて、「須賀さんは上手にフィクションを入れて書くところがありますから、そう書いたんでしょう。」と語っている箇所がある。
その箇所は、須賀敦子自身、記憶違いの可能性を考えて、慎重な書き方をしているようだが、別のエッセイでは一部「フィクション」の可能性はあるのだろうか。須賀敦子の筆致の鮮やかさゆえに、妙に気になった。