Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

パヌフニクの音楽

2021年05月14日 | 音楽
 来る5月15日と16日に開かれる尾高忠明指揮N響の演奏会で、アンジェイ・パヌフニクAndrzej Panufnik(1914‐1991)の交響曲第3番「神聖な交響曲」が演奏される。パヌフニクは尾高忠明の父の尾高尚忠(1911‐1951)がウィーン留学中に親交を結んだことで知られる作曲家だ。その縁だろう、尾高忠明が時々取り上げている。わたしは「カティンの墓碑銘」を聴いたことがある。

 でも、パヌフニクとはどんな作曲家か、ほとんど知らなかった。そこでこの機会にまとめて聴いてみた。パヌフニクには交響曲が10曲ある(他にも若いころに書いた交響曲があるようだが、いまは失われている)。幸い全曲がウカシュ・ボロヴィチLukasz Borowiczの指揮、ポーランド放送交響楽団とベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団の演奏でCD化されている。第1番から順に聴いた。

 その感想を書く前に、まずパヌフニクの生涯に触れておきたい。パヌフニクは1914年にポーランドのワルシャワで生まれた。第二次世界大戦中はルトスワフスキ(1913‐1994)とワルシャワでピアノ・デュオを組んでいた。戦後は当局から作品を攻撃され、1954年にイギリスに亡命した。以降、イギリスで生涯を全うした。

 その1954年という年は、いま振り返ると、微妙な意味をもっていた。ルトスワフスキが「葬送音楽」で前衛的な作風に転じたのが1958年。パヌフニクはその前にポーランドを去っている。またペンデレツキ(1933‐2020)が「広島の犠牲者に捧げる哀歌」(原題は別だったが、それを「広島の‥」に改題した)を発表したのは1960年。それらの「ポーランド楽派」と呼ばれる前衛音楽が興隆したとき、パヌフニクはすでにイギリスに渡っていた。

 交響曲第1番「素朴な交響曲」(1948)はポーランドで書かれた。前衛的な作風に転じる前のルトスワフスキのような平明で民俗的な要素をもつ曲だ。第2番「悲歌の交響曲」(1957)は第二次世界大戦中のワルシャワ蜂起の犠牲者のために書かれた。哀切な情感がただよう曲だ。来る5月15日と16日にN響で演奏される第3番「神聖な交響曲」(1963)は、神の試練と神への賛美のように聴こえた。感動的な作品だ。

 第4番「協奏交響曲」(1973)では半音階的な動きが目立つ。方向転換のきざしだろうか。第5番「空間の交響曲」以降は模索の長いトンネルに入り、次第に音の鮮度が落ちていったように感じる。第8番「シンフォニア・ヴォティヴァ」(邦訳は不明)は小澤征爾指揮ボストン交響楽団で初演され、第10番(表題なし)はショルティ指揮シカゴ交響楽団で初演された。その頃には確固たる名声を築いたのだろう。残念ながらわたしには、その時期の作品はよくわからなかったが。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 古代エジプト展 | トップ | 尾高忠明/N響 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

音楽」カテゴリの最新記事