Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

柴田南雄生誕100年・没後20年記念演奏会

2016年11月08日 | 音楽
 柴田南雄(1916‐1996)の生誕100年・没後20年の記念演奏会。合唱付の交響曲「ゆく河の流れは絶えずして」をメインに据えたこの演奏会は、日本フィルと東京混声合唱団の両方にポストを持つ山田和樹の企画力と実行力を示すものだ。

 1曲目はオーケストラ曲「ディアフォニア」(1979)。冒頭の第1ヴァイオリンの旋律がシェーンベルク的に聴こえた。濃厚なロマン主義を湛えた「浄夜」や「ペレアスとメリザンド」の時期のシェーンベルク。曲はその後、不確定性の部分と、再びロマン的な部分とを経て、グリッサンドで消え入るように終わった。

 2曲目は合唱と尺八のための「追分節考」(1973)。合唱も尺八も会場内を移動しながら演奏するシアターピース。西欧的な拍節感から完全に解き放たれた音楽。スコアはなく、いくつかの素材を指揮者が適宜選択し、指示を出す。けっして短い曲ではないが、全体を通して安定したハーモニーが確保されている。それが心地よい。

 3曲目は交響曲「ゆく河の流れは絶えずして」(1975)。1曲目の現代的なオーケストラ曲と2曲目のシアターピースとを総合したような音楽。テクストは鴨長明の「方丈記」。演奏時間60~70分(不確定性の部分があるので一定しない)の大曲が瑞々しく演奏された。少しも古びていない。それが感動的だった。

 「方丈記」は、東日本大震災以降、多くの人に読まれているという新聞記事を見かけたことがある。たしかに地震をふくむ災害の体験をリアルに描き、方丈(4畳半程度)に住む清貧の生活を語った本作は、現代の日本人の心に触れるところがある。

 そのためもあってか、「恐れのなかに恐るべかりけるはただ地震(なゐ)なりけり」のくだりと、「広さはわづかに方丈」のくだりが明瞭に聴き取れたときには心が震えた。

 東京混声合唱団と武蔵野音楽大学合唱団の合唱には透明感があった。日本フィルも、前期古典派からロマン派、12音、現代までの多様式の音楽を的確に描き分け、力むことなく、しかもパンチにも欠けない演奏を繰り広げた。総体的にこの曲を演奏するモチベーションの高さが感じられた。

 わたしは昔一度この曲を聴いたことがあるが、ほとんど記憶が薄れていた。その曲が、現代に生きる曲として、劇的に復活した。驚きと喜びと、山田和樹以下関係者の皆さんへの賞賛と、諸々の感情が沸き起こった。
(2016.11.7.サントリーホール)

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