Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

黛敏郎「金閣寺」

2015年12月06日 | 音楽
 黛敏郎のオペラ「金閣寺」の上演は16年ぶりだそうだ。今回その上演(蘇演といってもいいかもしれない)にこぎつけた関係者の努力と熱意にまずは敬意を表したい。わたしのような単なるオペラ・ファンにとっても、これは大きな出来事だった。

 いうまでもないが、原作は三島由紀夫の同名の小説だ。ベルリン・ドイツ・オペラの委嘱によりオペラ化された。台本はクラウス・H・ヘンネベルク。そのような由来を持つ作品なので、ドイツ語で書かれている。

 でも、ドイツ語で書かれたことが、今となっては幸いしていると思う。このオペラは、20世紀後半から台頭して今や一つの潮流となっている文芸オペラ(文学作品を原作として、そのエッセンスを損なうことなくオペラ化した作品)の一つに位置付けることができる。文芸オペラの一角を占める作品になったと思う。

 黛敏郎がこのオペラに付けた音楽は、ひじょうに分かりやすい。むしろサービス精神が旺盛だ。「涅槃交響曲」でお馴染みの仏教の声明を取り入れたり、思えば若いころから使っているジャズのイディオムを挿入したりしている。難解なところはまったくない。

 テクストは三島由紀夫の原作を反映して、観念的な要素を含むが、それはオペラの場合あまり問題にはならない。音楽がそれをカヴァーするからだ。

 今回の上演は、音楽面でも、舞台美術を含む演出の面でも、十分に準備されたものであることがよく分かった。まずそのことを称賛したい。その上で、いくつかの問題を感じたので、率直に申し上げたい。

 大きくいって3点あるが、第一に合唱を舞台裏に配置したこと。音楽的にはひじょうにマイナスになった。正直なところ、聴いていてイライラすることがあった。端的な例がフィナーレの声明の部分だ。PAを使ってもカヴァーし切れるものではなかった。

 第二に尺八の場面をカットしたことだ。終演後プログラムを読んだら、演出の田尾下哲の苦渋の選択だったことがよく分かった。その苦渋の大きさを、わたしは受け止めなければならないが、でも、あの尺八はフィナーレの声明と同じくらいのインパクトがあるので、演出上の工夫(たとえば主人公の空想の出来事にするとか)がほしかった。

 第三に休憩を入れる箇所が、いかにも中途半端だったことだ。尻切れトンボで休憩に入ってしまった。米兵の場面の後ではなく、前だったらまだよかったかもしれない。
(2015.12.5.神奈川県民ホール)
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