Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2015年10月05日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィのN響首席指揮者就任定期のAプロ。曲目はマーラーの交響曲第2番「復活」。

 就任前の2月定期では「巨人」を振った。驚きと発見に満ちた演奏だった。沈着冷静なN響が我を忘れて演奏した。熱狂の演奏。平野昭氏は新聞評で「奇跡の名演」と書いた(その新聞評が今回のプログラムに掲載されている)。名言だと思う。

 では、今回の「復活」も「巨人」の延長上の演奏だったか。わたしにはかなりタイプが違う演奏だと思われた。極限まで鍛え上げられた演奏だったが――そのこと自体はすごいことだが――、「巨人」とは同列に語れない演奏だと思った。

 今回の「復活」は硬質のドラマだった。マーラーの通俗性や自己憐憫は微塵もない。きれいに掃き清められた庭のようなもの。塵一つ落ちていない。完璧な音の世界。とくに弱音のコントロールは徹底している。緊張感が緩むことは一瞬たりともない。指揮者もオーケストラも超一流の証明だ。

 でも、「巨人」のときの熱狂はない。N響はつねに自己を見失わない。それはいつものN響だが、N響のいる場所が、いつもの場所からは遠く隔たった場所まで行っている。おそらくN響のメンバーにも未知の領域だったのではないだろうか。

 パーヴォ/N響の新時代はこの路線上にあるのだろうか。言い換えるなら、「巨人」は一回きりの現象だったのだろうか。

 そうかもしれないとも思う。というのも、くだんの「巨人」は2月定期のAプロだったが、Cプロのショスタコーヴィチの交響曲第5番は、かなり趣の異なる演奏だったからだ。素直でストレートな演奏。いつものN響のペースに戻った演奏。その違いはどこからくるのか。もしかすると「巨人」のときに客員コンサートマスターを務めたヴェスコ・エシュケナージの影響が大きかったのかもしれない。そうだとすると――。

 ともかくパーヴォ/N響の今後がどうなるかは、予断を許さない。その意味で今回Cプロのバルトーク「管弦楽のための協奏曲」の演奏がどうなるか、興味津々だ。

 なお、声楽陣だが、まず東京音楽大学の合唱に感銘を受けた。各声部を明瞭に聴き分けることができた。ソプラノ独唱のエリン・ウォールの若く伸びやかな声にも惹かれた。アルト独唱のリリ・パーシキヴィには特別のものを感じなかった。第4楽章「原光」での神への無垢な憧れが感じられなかったことは残念。
(2015.10.4.NHKホール)
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする