Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ダナエの愛

2015年10月03日 | 音楽
 東京二期会の「ダナエの愛」。同会のホームページに広瀬大介氏の「『ダナエの愛』への誘い」というエッセイが載っている。そこに「戦争に突き進む時代を背景とした、シュトラウス自身の「白鳥の歌」」という言葉があった。深く同感した。

 現に公演を観ながら、シュトラウスの当時の心境が感じられることが何度かあった。今鳴っているこの音楽を書いているとき、シュトラウスは人生との別れを告げているのではないかと――。あるいは、シュトラウスの場合、人生との別れは音楽との別れと同義語かもしれないので、音楽への感謝、そして音楽への別れを書いているつもりだったかもしれないと――。

 シュトラウスがこの作品を書いたのは1937~1940年だ。上演のあてがあったわけではないようだ。1941年4月28日にウィーン・フィルの当時の楽団長オットー・シュトラッサーほかウィーン・フィルのメンバー数人が、シュトラウス邸を訪問した。ピアノの上には「ダナエの愛」の3巻本の総譜が置かれていた。パウリーネ夫人は「これは、主人の死のあとで、初めて上演されるでしょうよ。」といったそうだ(オットー・シュトラッサー著ユリア・セヴェラン訳「栄光のウィーン・フィル」より)。

 もっともシュトラウスは、この作品のあと、オペラをもう一本書いた。「カプリッチョ」。あの作品での月光の音楽はたいへん美しいし、作品自体もあり余るオペラへの愛と感謝に満ちている。「カプリッチョ」だって白鳥の歌だといえるかもしれない。

 でも、楽屋落ちの要素がある「カプリッチョ」よりも、人間の慎ましい静かな生活を称揚する「ダナエの愛」の方に、戦時下のシュトラウスの心境が感じられる。

 さて、そういう「ダナエの愛」だが、今回の公演は白鳥の歌という感じではなかった。歌、オーケストラ、演出がバラバラで、まとまったアンサンブルに結実しなかった。

 ダナエの林正子、ユピテルの小森輝彦、ミダスの福井敬の主要3人は頑張っていたが(もっとも福井敬のドイツ語にはひっかかったが)、それぞれが個人技に止まっていた。

 指揮の準・メルクルも頑張っていたが、その割にオーケストラ(東京フィル)が粗かった。演出の深作健太は、分かりやすい演出ではあるのだが、頑張っているうちに終わってしまったような印象だ。

 全体的にだれが中心になってやっているのか、はっきりしない公演だった。
(2015.10.2.東京文化会館)
コメント (2)
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