Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

マーラー交響曲第9番

2010年04月12日 | 音楽
 N響の4月定期は名誉指揮者ブロムシュテットの指揮。Aプロはマーラーの交響曲第9番だった。ブロムシュテットは昔からよくブルックナーを振っているが、マーラーは珍しい。どういう演奏になるかと興味を抱いた。

 マーラーのなかでも第9番は特別な曲。キャリアのなかであまりマーラーを振っていない指揮者でも、巨匠クラスになってから第9番を取り上げることがある。あの透徹した、冷たい美の世界が、マーラーには感情移入できない指揮者も惹きつけるようだ。

 第1楽章の断片的なモチーフの積み重ねは、ブロムシュテットならもっと面白く演奏できそうな気がしたが、意外に砂をかむような演奏だった。ただ、コーダの緊張感はさすが。個々の奏者では、ホルンの松崎さんとフルートの神田さんが見事だった。
 第2楽章のレントラー、第3楽章のロンド・ブルレスケは――失礼な言い方になって申し訳ないが――私にはあまり収穫がなかった。第3楽章の終盤の第4楽章のテーマを先取りした部分では、関山さんのトランペットが美しかった。

 ここまではブロムシュテットの音楽性とマーラーとの距離感を感じたが、第4楽章アダージョになって、やっと共振した。冒頭の分厚い弦の響きから最後の消え入るような一音まで、指揮者とオーケストラ、そして曲が一体になった演奏が繰り広げられた。

 このアダージョをききながら、これは交響曲第3番の終楽章のアダージョとはまったく性格を異にする音楽だと思った。第3番の場合は、愛を求める音楽、その憧れと苦しみと成就の音楽だったが、こちらは人生のすべてを諦める音楽。その諦めをチャイコフスキーの「悲愴」交響曲のように嘆き悲しむのではなく、受容する音楽。

 その音楽が崇高なのは、マーラーが生涯を通じて自己劇化の音楽を書き続けたからではないだろうか。自己憐憫を隠そうともせず、苦しみ、のたうちまわり、闘争し、野心をみなぎらせた音楽、その果てに辿りついた音楽が――自己を捨てた――このアダージョだったので、私たちは感動するのではないか。

 再びブロムシュテットに戻ると――
 巷間、ブルックナー指揮者という言い方がある。マーラー指揮者という言い方も。その意味では、ブロムシュテットはブルックナー指揮者ということになるだろう。でも、そういう二分法にどれだけの意味があるのだろう、という気がした。
(2010.4.11.NHKホール)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする