新国立劇場の「愛の妙薬」の新制作。客席に入ると、パッチワークのようなカラフルな緞帳がさがっていて、もうこれだけで、どのような舞台になるか想像できるというもの。パッチワークにはアルファベットがランダムに入っていて、それはなんだろうと思っていたら、オペラが始まって合点がいった。
舞台の左右には、天井まで届きそうな巨大な本が3冊ずつ立っている。背表紙にはそれぞれ「トリスタンとイゾルデ」と書いてある(日、伊、独の3ヶ国語)。これは第1幕でアディーナが歌う「トリスタンとイゾルデ」のエピソードから来ているわけで、つまりこの舞台は本(=文字)というコンセプトで組み立てられている、というわけ。
このコンセプトは、お金も地位もなく字も読めないネモリーノが、お金もあって字も読めるアディーナの愛をえる、という筋立てと符合している。
舞台では一貫してこれらの本が移動しながら場面を作り、加えてElisir(妙薬)というアルファベットが、照明によって色彩を変えながら移動する。その結果、終始「トリスタンとイゾルデ」の存在が感じられる。私などはこれがワーグナーのパロディであるような気になってきた。ワーグナーより先にできてしまったパロディ。
このようなコンセプト以外でも、チェーザレ・リエヴィの演出は、各場面を明快に作りこんでいて、見事なものだった。たとえば、地味な場面だが、第2幕で村の娘たちがネモリーノに遺産が転がり込んできたと噂する場面。こういう場面をなんとなくワヤワヤやってしまうのではなく、きちんと作り込んでいく。場面の終わりで娘たちが「シッ」、「シッ」、「シッ」と言い合う箇所など、最初は3~4人まとまって小節単位で口に指を当て、最後は1人ずつ音符単位で指を当てていく。それがなんともコミカルだった。
ネモリーノはジョセフ・カレヤ。リリコにはちがいないのだろうが、やや暗めで、骨太な声質。パワーがあるので、リリコの役以外でも可能性がありそうだ。
アディーナはタチアナ・リスニック。視覚的には十分だが(マリリン・モンロー風のメイクが面白い。西洋人はマリリンが好き‥)、第2幕の大アリアは精一杯といったところ。
ドゥルカマーラはブルーノ・デ・シモーネ。例によって芸達者で感心してしまう。こういうバッソ・ブッフォは、なかなか日本人では難しい。
ベルコーレは与那城敬(よなしろ・けい)。舞台映えする容姿。外国勢に伍して立派にやっていた。
指揮はパオロ・オルミ。第1幕では、歌手をかばったのか、安全運転気味かと思ったが、第2幕は快調なテンポでリードしていた。
(2010.4.25.新国立劇場)
舞台の左右には、天井まで届きそうな巨大な本が3冊ずつ立っている。背表紙にはそれぞれ「トリスタンとイゾルデ」と書いてある(日、伊、独の3ヶ国語)。これは第1幕でアディーナが歌う「トリスタンとイゾルデ」のエピソードから来ているわけで、つまりこの舞台は本(=文字)というコンセプトで組み立てられている、というわけ。
このコンセプトは、お金も地位もなく字も読めないネモリーノが、お金もあって字も読めるアディーナの愛をえる、という筋立てと符合している。
舞台では一貫してこれらの本が移動しながら場面を作り、加えてElisir(妙薬)というアルファベットが、照明によって色彩を変えながら移動する。その結果、終始「トリスタンとイゾルデ」の存在が感じられる。私などはこれがワーグナーのパロディであるような気になってきた。ワーグナーより先にできてしまったパロディ。
このようなコンセプト以外でも、チェーザレ・リエヴィの演出は、各場面を明快に作りこんでいて、見事なものだった。たとえば、地味な場面だが、第2幕で村の娘たちがネモリーノに遺産が転がり込んできたと噂する場面。こういう場面をなんとなくワヤワヤやってしまうのではなく、きちんと作り込んでいく。場面の終わりで娘たちが「シッ」、「シッ」、「シッ」と言い合う箇所など、最初は3~4人まとまって小節単位で口に指を当て、最後は1人ずつ音符単位で指を当てていく。それがなんともコミカルだった。
ネモリーノはジョセフ・カレヤ。リリコにはちがいないのだろうが、やや暗めで、骨太な声質。パワーがあるので、リリコの役以外でも可能性がありそうだ。
アディーナはタチアナ・リスニック。視覚的には十分だが(マリリン・モンロー風のメイクが面白い。西洋人はマリリンが好き‥)、第2幕の大アリアは精一杯といったところ。
ドゥルカマーラはブルーノ・デ・シモーネ。例によって芸達者で感心してしまう。こういうバッソ・ブッフォは、なかなか日本人では難しい。
ベルコーレは与那城敬(よなしろ・けい)。舞台映えする容姿。外国勢に伍して立派にやっていた。
指揮はパオロ・オルミ。第1幕では、歌手をかばったのか、安全運転気味かと思ったが、第2幕は快調なテンポでリードしていた。
(2010.4.25.新国立劇場)