Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

神々の黄昏

2010年03月29日 | 音楽
 新国立劇場の「神々の黄昏」の再演。私は2004年の新制作のときもみている。その記憶が鮮明に残っていると思っていたのに、今回あらためてみてみると、新たな発見や忘れていたディテールがあり、やはりこれは優れた舞台だと思った。

 演出上の白眉は、ジークフリートの葬送行進曲の場面だろう。背中を槍で刺されたジークフリートが、舞台奥の「ブリュンヒルデ」に向かってよろよろと歩いていく。手には指環をもって、前方に差し出している。指環を返そうとしているのだ。しかし力尽きて倒れる。葬送行進曲が終わって、舞台前面に駆けだしてくる「ブリュンヒルデ」。ワルキューレの兜を脱ぐと、グートルーネだった。救われないジークフリート。

 そのほかにも、それこそ息をもつかせぬほど、演出上のディテールが続く。「ワルキューレ」と「ジークフリート」が比較的ストレートな演出だったのにたいして、「ラインの黄金」と「神々の黄昏」には細かい仕掛けが全篇にわたって張り巡らされている。これは4部作のそれぞれの本質を暗示していると思われる。

 それにしても、「神々の黄昏」とは、なんというドラマなのだろう。全篇これ欺瞞と裏切りのドラマ。それがいやというほど続いて、いい加減辟易とさせられたころに、ジークフリートが記憶を取り戻し、その瞬間に槍で刺される。ジークフリートの葬送行進曲、ブリュンヒルデの自己犠牲とドラマは一気に進む。「欺瞞と裏切り」が「真情」へと転換するダイナミズム。

 そこに入れ子細工のように挟み込まれているのがヴァルトラウテの場面。この場面が感動的なのは、欺瞞と裏切りが渦巻いている世界にあって、ぽっかりあいた真空地帯のように「真情」が顔をのぞかせるからだ。音楽的にはブリュンヒルデの自己犠牲のなかの「ラインの岸辺に薪を積み上げよ」が先取りされている。ワーグナーはすべて計算しているのだ。

 逆に、欺瞞と裏切りが行くところまで行ってしまったのが、ブリュンヒルデとハーゲンの場面。愚かな俗物にすぎないジークフリートならともかく、賢明なはずのブリュンヒルデがこともあろうにハーゲンとジークフリート殺害を謀る。あの場面の意味はなんだろう。私見では、あそこで母性愛を捨てたのだ。それはやがて神々の世界に引導を渡すブリュンヒルデにとって必要なイニシエーションだった。

 ダン・エッティンガーの指揮は、音楽の起伏を大きくとり、しかも呼吸感を失わないもの。しかしカーテンコールのときに一部の観客からブーイングが出た。このときジークフリート役のクリスティアン・フランツは、軽く両手を振って「よせやい(笑い)」という仕種をした。私も同感だった。
(2010.3.27.新国立劇場)
コメント (2)
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