後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔483〕映画『MINAMATAーミナマター』を見て、シンポジウム「水俣と福島~アイリーン・美緒子・スミスさんと語ろう」に参加しました。

2022年06月15日 | 映画鑑賞
  結婚するまで練馬区に住んでいながら、池袋駅から徒歩数分の立教大学構内に足を踏み入れたことはありませんでした。師匠の冨田博之さんは立教大学で講師をしていたり、同じ立場の如月小春さんの教え子から連絡があり、卒論の協力を求められたりしながら大学に立ち寄ることもありませんでした。そうそう、実は、我々夫婦の共同ミニコミ誌「啓」も100号までこの大学の一角に収められているのですが。
  6月11日(土)、立教大学タッカーホールで「水俣と福島~アイリーン・美緒子・スミスさんと語ろう」という集会がありました。映画『MINAMATAーミナマター』鑑賞もできるというので参加しました。300人を超える参加者でした。 



◆内容
13:00 映画『MINAMATAーミナマター』(115分)
1971年、ニューヨーク。アメリカを代表する写真家ながら、酒に溺れ、荒んだ生活を送っていたユージン・スミスのもとに、情熱的な日本人通訳者アイリーンが訪れる。水俣病で苦しむ人々を撮影してほしいというのだ。説得に応じ、水俣に足を踏み入れたユージン。現地で目にしたのは厳しい現実だった。偏見に晒された患者、力で押さえつける工場、分断。水俣病と共に生きる人々に向き合ったユージンとアイリーンの姿を、俳優ジョニー・デップがプロデューサーを引き受け映画化した。日本では2021年秋公開。

15:00 シンポジウム「水俣と福島~アイリーン・美緒子・スミスさんと語ろう」
「多くの子どもが甲状腺がんに苦しんでいる」などないと否定する政府や福島県。放射線被曝による健康影響を口にすれば、「風評被害」や「差別」を招くと批判され、被害者が声をあげられない状況が続いてきました。しかし、今年1月、6人の甲状腺がんの若者が立ち上がり、裁判を提起しました。
そこにある事実が政策を導かず、政策が事実と科学をねつ造するという構造は、水俣病と共通しています。アイリーン・美緒子・スミスさんとともに、これからの道筋を考えます。


  映画も見どころ満載でしたが、圧巻だったのはパネルディスカッションでした。
  パネリストは以下の通りです。(チラシにも書かれています。)

*アイリーン・美緒子・スミス(グリーンアクション代表)
*井戸謙一弁護士(311 子ども甲状腺がん裁判、子ども脱被ばく裁判弁護団長)
*311 子ども甲状腺がん裁判の原告
*河潤美弁護士(311 子ども甲状腺がん裁判弁護団)
*砂川浩慶教授(立教大学社会学部メディア社会学科)

コーディネーター:白石草(パネルディスカッション司会)
総合司会:熊澤美帆(311 子ども甲状腺がん裁判弁護団)

  パネルディスカッションでしばしば胸が締め付けられたのは、311 子ども甲状腺がん裁判の原告3人(全員で6名、現在17~28歳)がパネルの向こうに登壇し、マイクで発言したときでした。









  福島原発事故が起こったとき、彼らは6歳から16歳でした。その後小児甲状腺がんであることが判明します。そもそも小児甲状腺がんは年間100万人に1~2人しか発生しない希少な癌ですが、福島県では事故後、38万人の子どもから少なくとも293人の小児甲状腺がんが発生しているそうです。
 そして、今年の1月27日、東京電力ホールディングス株式会社を6人が提訴し、そのうちの3人が集会に参加して発言したのです。
  彼ら6人の発言は『通販生活』(2022年夏号)に大きく取り上げられ、集会でもそのコピーが配布されました。

  元気溌剌、我々と同世代のアイリーンさんを初めとして、原告の3人、そしてパネリストすべてがきらきらしていてその闘う姿が素敵でした。
 さて、私に何ができるのでしょうか。


◆沈思実行(102)
  裏切られた少女のねがい
  日本復帰で沖縄は本当に救われるだろうか?
                       鎌田 慧

 テレビ朝日の名物番組「朝まで生テレビ」は、今年35周年を迎えた
そうだ。
 これまで420回放送されたが、沖縄をテーマにしたのは5回だけ、
という。
 この事実を掘り起こした朝日新聞の記者の問題意識は貴重だ(同紙
5月18日)
 この番組の名物司会者・田原総一朗さんは、その理由を「残念ながら
沖縄の基地問題は視聴率がこないから」と言って退けている。
 それでも、朝日の沖縄支局に駐在していたTBSのニュース
キャスター・筑紫哲也や、その後継者・金平茂紀は、もっと頻繁に
沖縄の番組をつくってきたであろう。

 「視聴率がこない」。つまり「視聴者の食いつきが悪い」ということ
だが、それがマスコミと沖縄との関係をよく示している。
 沖縄はニュース・バリューと視聴率の間の暗闇に落されてきた。
 5月15日、沖縄復帰50年。この50年に一回の大イベント。それなりに
報道された。が、本号がでるころはどうなっているのだろうか。

 沖縄のひとたちにとって、本土復帰は、「憲法9条への復帰」と
期待されていた。「核抜き、本土並み」。それが平和な生活への悲願
だった。
 が、実際は復帰から50年経って、全国の米軍専用施設面積に占める
沖縄の割合は、現在70%復帰時は59%だった。だから11%も
ふえたのだ。

 まして、いまや問答無用とばかり、県知事が率先反対し、県民の70%
が反対している、辺野古米軍新基地建設のために、「マヨネーズ状」と
いわれる90メートルの海底にむけて、政府は膨大な岩石を、あたかも
賽の河原に石を積むように、毎日、ムダに投入し続けている。
 しかし、その過酷な現実は、復帰50年の「記念日」にむけた報道の
一例として、辛うじて報道されただけなのだ。

 「復帰で 沖縄はほんとうに すくわれるのだろうか 沖縄には 
日本復帰で 平和になりたいという 強い強いねがいがある」
 1972年5月15日、朝日新聞に掲載された、小学校5年の少女の詩
「私のねがい」の一部である。
 そのねがいは、みごとなまでに裏切られた。
            (6月1日週刊「新社会」8面より)

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