タラソワ先生のプログラムに対して、公然と疑問が出るようになってきました。僕の危惧というか戯言(たわごと)が、ようやく庶民レベルまで理解されて市民権を獲得してきたわけです。きざに言うと、時代が僕に追いついてきたのです。それで、ずいぶん前に予告した、タラソワプロの欠点について説明したいと思います。
フィギュアスケートはバレエ的な要素を持つ、音楽と躍動する肉体の融合した芸術としての可能性を秘めています。しかし、芸術には、生半可な芸術論では見逃される、ある本質があるのです。それは「空間」という言葉です。
空間というのは、単に投影法的な三次元的表現を指すのではなく、浮世絵などの平面的な作品にも空間はあります。三次元的な表現の代表がレオナルド・ダ・ヴィンチですが、彼の作品を分析すると、実は大きな平面構成の要素も見えてきます。僕はこれを色面と呼んでいますが、レオナルドの作品は「大きな色面の中に小さな色面があり、これが繰り返される」のです。また色面で空間を感じさせているのです。ですから、浮世絵の平面的な表現と基本的に変わらないのです。
ただし、色面構成は極めて難しく、使う色と面積、あるいは他の色との調和、または色彩心理学的な意味合い、などの要素で複雑化します。これが表現の多様化に繋がるわけですが、しかし、どの様に表現が多様化しようとも、空間という呪縛からは逃れられません。空間のない絵画は芸術ではないし、また仮想的な時間を感じさせることもないのです。
タラソワ先生のプログラムは、単純なリズムの中で動き回るだけの、絵画で言えばロココ調の脂ぎった物です。ロココ調の絵画と言えばポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour)の肖像画が有名ですが、フランス大会の別名がエリック・ボンパード杯(Trophee Eric Bompard)ですから少し似ていますね。甘味ならフルーツパフェやチョコレートパフェの世界です。
ロココ調の絵画は少し観るとお腹一杯で、口直しに雪舟の水墨画が観たくなります。ロココの作品には空間が無いので、芸術に必須の時間もまた無いのです。優れた芸術作品は常に新しく、時間を超越して存在します。見る人の魂が解放され、想像力が刺激されます。これが芸術が与える興奮なのです。
芸術で言うところの空間には、間合いや、緩急、リズム、陰影、動と静、などの要素が含まれます。あらゆる表現技法の基礎にあるからこそ、芸術と言えば空間芸術に収束するのです。
しかし、スケートリンクという広いスペースと、ジャンプという空間要素を持ちながら、タラソワ先生のプログラムは余裕が無くて息苦しく、間合いと緩急の対比もないので単調になり、動と静の対比もないので時間が長く(退屈に)感じられるのです。不朽の名作となった『ノクターン』は、この全ての要素が満たされた傑作なのです。
繊細感とか微妙な味付けとか、そういう枝葉の要素は、上記の基本を満たせば自然に付いてくる人影のようなものです。最初から求める物ではありません。『ノクターン』はエッジが氷を削る音すらも快感となる傑作でしたが、それはニコルと真央という二人の感性が調和した、有る意味、奇跡的なコラボの結果でした。
大人の表現とか、重厚さとか、そういう下らない趣味は豚にでも食わせて、真央らしく軽やかに演技できる曲を選びましょう。それに、少しばかりの振り付けが有ればよいのです。スケートリンクという空間を支配する力が、天才・真央にはあるのですから。
エフライム工房 平御幸
フィギュアスケートはバレエ的な要素を持つ、音楽と躍動する肉体の融合した芸術としての可能性を秘めています。しかし、芸術には、生半可な芸術論では見逃される、ある本質があるのです。それは「空間」という言葉です。
空間というのは、単に投影法的な三次元的表現を指すのではなく、浮世絵などの平面的な作品にも空間はあります。三次元的な表現の代表がレオナルド・ダ・ヴィンチですが、彼の作品を分析すると、実は大きな平面構成の要素も見えてきます。僕はこれを色面と呼んでいますが、レオナルドの作品は「大きな色面の中に小さな色面があり、これが繰り返される」のです。また色面で空間を感じさせているのです。ですから、浮世絵の平面的な表現と基本的に変わらないのです。
ただし、色面構成は極めて難しく、使う色と面積、あるいは他の色との調和、または色彩心理学的な意味合い、などの要素で複雑化します。これが表現の多様化に繋がるわけですが、しかし、どの様に表現が多様化しようとも、空間という呪縛からは逃れられません。空間のない絵画は芸術ではないし、また仮想的な時間を感じさせることもないのです。
タラソワ先生のプログラムは、単純なリズムの中で動き回るだけの、絵画で言えばロココ調の脂ぎった物です。ロココ調の絵画と言えばポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour)の肖像画が有名ですが、フランス大会の別名がエリック・ボンパード杯(Trophee Eric Bompard)ですから少し似ていますね。甘味ならフルーツパフェやチョコレートパフェの世界です。
ロココ調の絵画は少し観るとお腹一杯で、口直しに雪舟の水墨画が観たくなります。ロココの作品には空間が無いので、芸術に必須の時間もまた無いのです。優れた芸術作品は常に新しく、時間を超越して存在します。見る人の魂が解放され、想像力が刺激されます。これが芸術が与える興奮なのです。
芸術で言うところの空間には、間合いや、緩急、リズム、陰影、動と静、などの要素が含まれます。あらゆる表現技法の基礎にあるからこそ、芸術と言えば空間芸術に収束するのです。
しかし、スケートリンクという広いスペースと、ジャンプという空間要素を持ちながら、タラソワ先生のプログラムは余裕が無くて息苦しく、間合いと緩急の対比もないので単調になり、動と静の対比もないので時間が長く(退屈に)感じられるのです。不朽の名作となった『ノクターン』は、この全ての要素が満たされた傑作なのです。
繊細感とか微妙な味付けとか、そういう枝葉の要素は、上記の基本を満たせば自然に付いてくる人影のようなものです。最初から求める物ではありません。『ノクターン』はエッジが氷を削る音すらも快感となる傑作でしたが、それはニコルと真央という二人の感性が調和した、有る意味、奇跡的なコラボの結果でした。
大人の表現とか、重厚さとか、そういう下らない趣味は豚にでも食わせて、真央らしく軽やかに演技できる曲を選びましょう。それに、少しばかりの振り付けが有ればよいのです。スケートリンクという空間を支配する力が、天才・真央にはあるのですから。
エフライム工房 平御幸
フィギュアスケートは芸術でもある、という言葉はよく聞きますが、ここまで丁寧に説明してもらえたのは初めてです。ありがとうございます。
私の場合、昨年の某ふじテレビの放送で背筋が寒くなった経験を持つ一人なんですが、あのときは、理不尽な比較におこってました。しかし、それよりも重大なことは、真央ちゃんに「表現力のなさ」の呪縛を植え付けてしまったとこなんだと、いま愕然としました。あるものをないと捉えて、豊かな空間を埋め尽くしているんだと。
これは、本人は気付かない、というか気付けないですね。
でも、何かで「はっと」気付くきっかけはないものでしょうか。
それが、オリンピックというのでは、あまりにも。。。
そういえば、昨シーズンのタンゴ、あれは「余裕」があるように見えますが、どうでしょう。(実は、一時フィギュアスケートに関心がなくなってたんですが、あの動画をたまたまみて、すごくびっくりして感動したのを思い出しました。それでまた、真央ちゃんを見るようになったのです。)
ショートはノクターン。フリーは幻想即興曲。このニコル路線でしかオリンピックで勝つチャンスはないと思います。タラソワ先生が最大の障壁になりつつあるので、未来は明るくないですね。
おっしゃるとおり、タラソワ先生のプログラムは女子シングルには合っていません。ジャンプのウェートが高いこの競技では、それはあまりに無駄な演技が多く、ジャンプに集中しにくく(キムをはるかに凌ぐ)その力を存分に発揮できません。
トリノ金の荒川さんのときと同じように、その前に卒業しなくては五輪金は見えてきません。
まるで旧ソ連・東欧共産圏の威光をその重厚な音楽とともに再現しようとしているかのようで、衣装の色もそうですが暗いイメージを拭えず、太陽の真央さんには全く合いません。
あの自国のヤクディンのときは映画音楽で、とてもよかったのですが・・・。
真央さんは欧州の王女でしたから、パリを拠点に活動したショパンの曲は華があってとても合います。
対して、キムはますます娼婦的になり、サタンの申し子のようで、気持ち悪くなります。
真央さんはお姫様の演技で、どんな曲でも美しく見えますね。
レオナルドの遺作「モナ・リザ」はルーヴルの至宝ですが、それはまさに「在りて在る」、単なる絵画ではなかったです。館内で最も多くの鑑賞者を集め、その第一級の芸術品は、けして忘れることのできない感銘を与えるのです。
僕に言わせれば2年間も無駄にした真央ちゃんですが、難度を下げるのは上げるよりも容易なことだけが唯一の希望です。
真央ちゃんなら、村主さんの構成でも、完璧なら200点を超えますから。問題は本人に完璧さを求める心がないことですね。
真央ちゃんがSPの曲を「24のカプリース」に変更するそうです!
仮面舞踏会の曲では、目新しさがなくといとう海外からの評価があったりしたそうで・・・
何より、24のカプリースをで演技している真央ちゃんの方が笑顔があって真央らしいという声が依然からあったとかで・・・
もうあの頭から離れない仮面舞踏会を聞かなくてすむし、笑顔の真央ちゃんがきっと見られるし、外部からの声を参考にしていることも少しわかったし、なんだか少しほっとしました!
真央ちゃん、がんばれ~(^_-)-☆
それは目出度い!
でもまだ『鐘』がある orz。
平先生の話を読んでいると、グランプリファイナルには出ない方がいいような気がしてきました。
日本選手と、彼ら彼女らを応援する観客のエネルギーが、暗黒女王に吸い取られそうでこわい・・・ とくに真央ちゃん。
でも、ロシアでの試合の失敗を望むのも変な気がして、複雑です。
今日の中日新聞に、暗黒女王のインタビューが載ってました。
「きょうはもうフィギュアのネタはないだろう」と油断してスポーツ欄を開いたのがあさはかでした。
真央ちゃんの地元なのにこんな状態では、後は推して知るべし、ですね。
「ノクターン」を見るなどして心を落ち着けたいです。
韓国の筋書きは
1.ファイナルで真央潰しをする。
2.ファイナルはパスしてオリンピックに集中
この二通りが計画されているはずです。シーズン最初の試合で最高点が出たということは、あとの試合をパスする用意があるということです。真央潰しのファイナルを最初に持ってきたと考えれば分かりやすいです。
それでも、日本選手がファイナルに出るのは考え物です。全日本が控えているし、四大陸の扱いもはっきりしていない現状では、本心から出たがるトップ選手はいないのでは。でも日本選手はスポーツ馬鹿だから…。
ずっと、思っていたことが、平様のブログにたどり着けてとてもうれしく思います。
タラソワさんの旧ソ連の重厚なプログラムと真央さんの透明感のある、ラファエロの天使の絵のようなやららかさ、ルノワールのバラ色で喜びに満ち溢れた色彩をまとったオーラには全く合ってないと思います。
最初鐘のプログラムを観た時、何かの罰ゲームのように感じましたし、
キリストの最後の7日間のように、残酷で目をそむけたくなるばかりです。
ノクターンに合わせたスケーティングは本当に素晴らしく、海外の元メダリストの解説付の動画もみましたが、絶賛でしたので、
方向性はこれで良いのではと思ってました。
ローリーニコルさんの振付も真央さんの魅力を引き出すべく、素晴らしいものでした。
誰にも真似できない美しさが確かにそこにはありました、今の現状は見てても辛くなります。
本当にノクターンのプログラムに戻して欲しいです。
何故鐘にこだわり続けるのか、
『愚かな頑固さは狭量な心のあらわれ』と気づいてほしいですね。
鐘ですが、まだ確証はないのですが、CM契約の予定があるのだと思います。昔ならカネボウで確定なのですが、企業再生中の今はどうですかね。これで身動きが出来ない可能性があります。
久しぶりに掲示板を覗いてみて、トリプルアクセル2回記念オルゴールや振り付け曲CDのタイアップなど、ほとんど狂気の沙汰ですね。
本当かどうか分かりませんが、強化費独占1千万円とか、それでいてジャンプコーチを付けないとか、ここまで金の亡者のようになっているとは驚きです。真央ママの責任でしょうが、ファンに愛されたエアロのネスレを切った時点で堕落していたのです。