明治末期の製造業の状況を、江別村から札幌支庁への報告(45年3月)に見ると、富士製紙(株)あ煉瓦工場のほか、下記の業種を含め28が操業中です。
木材製造 1 / 建具製造 2 / 馬具製造 1 / 穀物掲精 2 /
提灯製造 1 / 鰤力加工製造 1 / 畳 製造 3 / 靴 製造 2 /
金物製造 3 / 粉 製造 1 / 石蝋製造 1 / 柾 製造 3
その大半は、室内工業であり、夫婦と子供、あるいは住み込み徒弟(無給)によるものです。
それら家内工業群の中における数少ない本格的工場の従業員労働条件です。
今日とは異なり、いずれも早朝6時から夕方6時までの12時間労働で、一日の半分は工場に縛り付けられました。
退社後の残余の時間は、睡眠と食事の時間を除くといかほどもありませんでした。
男女の賃金格差は、歴然としています。
これは、肉体労働(力仕事)が主であったからでしょうか。
また、これを43年・札幌区労働賃金(日給・並)である木挽職75銭、煉瓦製造職80銭、人夫70銭に比べると、若干低目(調査時点のズレを勘案)と言えます。
それにしても、男工の1日賃金80銭から55銭といのは、札幌ー手宮間の汽車賃が35銭(大正2年)、日本酒中等酒1升73銭(大正2年)の時代、決して恵まれた条件とはいえません。
明治32年6月、北炭の野幌煉瓦工場で経営側の一方的な賃金引き下げに端を発した同盟寵業がおきました。職工600人中、67人が職場を放棄、賃金の復旧を求め駅前に集結しました。
不穏な成り行きに警察と地域の重立が仲介に立ち、経営側の久保組・久保兵太郎(栄太郎の息・のち札幌商業会議所会頭)は2分の1復旧の意向を伝えました。
その後事態がどのように展開し、終息したかは不明だが、これが江別における最初の労働争議と思われます。
この、いわゆる久保組の大正2年(1913年)の職工は、135人(男90、女45)で、日給は男工65銭、女工30銭でした。
支払方法は、「月末製品ノ高ヲ計算シ 毎月5日職工頭ニ現金払トス」(大正3年「産業調査」)です。
直接本人払いでなく、作業部門の組頭に支払う方法など、やはりそこに低賃金以外にも面白からざる事情が伏在し、それが爆発したとしても不思議ではありません。
工場法(大正5年)が施行されても、また、同法が改正(同15年)されても、労働者の就労条件は雇用者の胸ひとつの時代でした。
註 :江別市総務部「新江別市史」206-207頁.
写真:王子特殊紙株式会社工場パルプ倉庫を石狩川沿いから撮影
パルプ倉庫は、野幌煉瓦を使用した現存する建物として最古の建物です。
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